お妃様と黒い犬 2




 結局ずっと夕鈴がいる部屋で待っていた黒犬は、着替えて部屋に戻るときも黙って付い
 てきた。
 吠えたのは最初の一回だけだし、本当に大人しい犬だと思う。

 でも、ずっとこのままではいられない。
 誰も知らないこの犬は、一体どこから来たんだろう。

「…本当にどこから来たの? 私に付いてきても何にもならないわよ。」
 立ち止まってしゃがんで、頭を撫でてやりながら犬に語りかける。
 人の言葉を理解することはないと思うけれど、この犬以外にどこから来たか知っている
 者はいない。


 ふと、犬が弾かれたように顔を外へと向けた。
 そうして茂みの一点をじっと見つめる。
「どうしたの? そっちに何か――――」

「バウッ」

 鋭く吠えたかと思うと、その子は夕鈴を最初の時のように押し倒す。
 同時に風を切る音が聞こえた。

「な、なに??」
 夕鈴の戸惑いを無視するかのように、もう一度吠えて欄干から飛び出す。
 さっき見つめていた茂みに飛び込むと、中から男の詰まる声がした。

「バウ バウッ」

 揉み合うようにして男と犬が茂みから転がり出てくる。
 男の手には弓が握られていた。
「刺客…!」
 噛み付かん勢いの犬を男は振り払おうともがく。
 けれどのしかかる犬は大きく重く、牙を避けるので精一杯のようだ。
 弓を取り落とした男の手が懐へと入るのが見えて、キラリと光った物に夕鈴は青くなっ
 た。

(刃物――――!?)

「誰か! 誰か早く!!」
 あの子を助けたい一心で夕鈴は大声で助けを呼ぶ。


「夕鈴!?」

 声を聞きつけて1番にやってきたのは黎翔だった。
 夕鈴からも駆け寄って外を指差す。
「陛下! あそこに刺客が…!」
 犬と男がもみ合っている現場を見ると、彼も即座に同じ場所から飛び降りた。

「あの子を助けて!!」
 祈るような心地で手を組む。

(私を守るために戦ったあの子を、どうかこれ以上傷つけないで―――ッ)





 両者が離れた隙に剣の鞘で刺客を殴り飛ばす。
 容赦ない攻撃に蹲り、胃の中の物を吐き出した男は半ば呆然として今自分がいたところ
 に目を向けた。
 犬と刺客の間に立った黎翔は、狼陛下の鋭い瞳で刺客を射貫く。
「ここまで入り込めたことは褒めよう。しかし我が妃の命を狙う者をこの私が許すはず
 がないことも知っているだろう。―――その覚悟はあろうな?」
 ぞくりと背筋が凍るほどの冷たい声音。
 剣は鞘に収められたままのはずなのに、まるで抜き身の刃を首元に突きつけられている
 ようだ。
 固まっている相手に薄い笑みを浮かべる。
「その命を以って償うか?」
「ッッ」

「陛下!!」

 李順の声が凍り付く空気を断ち切った。
 その彼の後ろから大きな足音を立てて衛兵達もやって来る。
 彼らは茫然自失の刺客を取り押さえ、そしてそのまま男は連れて行かれた。






「グルルル…」
 犬が黎翔に向かって唸り声を上げる。
 警戒心を剥き出しにして、身を低くすると彼に向かって構えた。
「ほお。私も敵だというのか?」
 面白いと黎翔もそちらを向いて対峙する。

「ダメ! この人は違うわ!」

 一触即発かと思われたその時に、夕鈴が両者の間に割って入った。
 彼を庇うように腕を広げて犬の目をじっと見つめる。
 すると唸っていた声は消え、警戒心を解いた犬はトコトコと夕鈴の足元にやって来て足
 に擦り寄った。


「助けてくれてありがとう。」
 お礼を言いながら頭を撫でると犬はますます甘えてくる。
 けれどその後ろ足を見た夕鈴は再び青褪めた。
 不自然に引きずっている左の足に矢が刺さっていたのだ。
 本来なら夕鈴が受けるはずだったものを、彼女を庇ったこの子が受けてしまった。
「手当をしないと…」
 オロオロする夕鈴の肩に手を置いた黎翔が、大丈夫だと安心させるように笑んで膝を付
 く。
「夕鈴、ちょっと首抱いててあげて。」
「は、はい。」
 その意味は夕鈴にはよく分からなかったけれど。
 とりあえず言われた通り、ふさふさの首に手を回してぎゅっと抱きついた。
 彼は片手で足を押さえ込んで、もう一方で刺さった矢の根元を握る。
「…ちょっと我慢してね。」
 そして少し力を込めると、一気に矢を引き抜いた。
「!」
 声にならない声を上げてびくりと震えた犬を夕鈴はさらに強く抱きしめる。
 これは彼が自分に任せた役割なのだ。任せた彼と信頼を寄せるこの子と、その両方の思
 いにちゃんと応えたかった。
「大丈夫、大丈夫よ…」
 気丈に足を見つめたままで、夕鈴は何度も優しく声をかけ続ける。
 その間に黎翔が絹の衣を引き裂いて包帯代わりに傷口に巻いた。
「あとは専門の者に任せよう。」
「はい。」
 

「―――よく守ってくれた。」
 黎翔が頭を撫でると、お礼のつもりなのか擦り寄ってくる。
「陛下のことも認めてくれたみたいですね。」
 夕鈴が嬉しそうにそう言ったので、黎翔もそうだねと言って笑った。













「あの犬は元々僕に献上されるものだったんだ。」
 部屋に戻った後で、事情を聞いていたのか犬のことについて陛下が教えてくれた。
「それが途中で逃げ出したらしくて探してたんだって。」
 献上される前なら老師が知らなくて当たり前だ。
 そしてそれより、あの子がここにいて良かったのだと知って安心した。

「どうしたの?」
 ホッとしたのも束の間、再び沈んだ表情を見せる夕鈴を彼が心配そうに覗き込む。
 促されるまま長椅子に座る彼の隣に腰掛けて、夕鈴は俯いてぎゅっと自分の手を握りし
 めた。
「あの子の怪我は大丈夫でしょうか…」
 あの子は今診てもらっているところだ。
 夕鈴を庇って怪我をしたあの子、血も出ていたしすごく痛そうだった。
 震えるその手に彼はそっと手を重ねる。
 ハッとして顔を上げると、優しい彼の笑顔にぶつかった。
「大丈夫だよ、すぐに良くなる。そうしたら会いに行こう。」
 そして頭を撫でられる。あの子にしたのと同じように。
 その仕草にふんわりと胸が温かくなって同時に元気も出た。
「はい!」
 元気に返事を返したら、彼はもっと笑みを深めた。








「…ちょっと妬けるかも。」
 ぼそりと呟くと、彼女が不思議そうな顔で見上げてくる。
「何か言いましたか?」
「…いや、何でもないよ。」


 僕が怪我をしてもこんな風に心配してくれるのかな?

 ちょっとでもそう思ってしまったことは内緒の話。







2011.3.9. UP



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本当に犬の話でした(笑)
陛下の出番がないよ!!と思ったので最後は2人の会話でシメ。
ブラック狼陛下の練習もちょっと。本番は次回です(笑)

最初は犬=陛下の話のつもりだったんですけど、話が止まってしまったので。
わんちゃんは夕鈴のというより私のイメージです。黒くて毛がふさふさしている大型犬☆


・オマケ・
「あ! 分かりました!」
「何が分かったの?」
「あの子を見たときからずっと既視感を覚えてて。あの子、陛下に似てるんですよ。」
「へ?」
「私の中のイメージですけど。大きくて黒くて、大人しいけど強くて。」
「夕鈴の中の僕って犬なんだ…」
 


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