心の在処・後日談




「―――お帰りなさいませ、陛下。」
 人目を避けて自室に帰った黎翔を出迎えたのは、側近の引きつった笑みと挨拶だった。


「どちらへお出かけされていたのでしょうか?」
 オーラがどす黒くて怖い。
 さすがの黎翔も少したじろいだ。
「宰相殿を誤魔化すのに私がどれだけ苦労したか…」
 得意のお小言を李順は延々と繰り出す。
 それを聞き流しながら、よくそんなに言葉が浮かぶなといっそ感心した。
 ついでに息切れはしないんだろうかとどうでも良いことまで考えてみたりして。


 抜け出したのはほんの数時間だったのだが、本来は抜け出す時間などないほど忙しい。
 それを突然いなくなったのだから、李順や宰相の怒りは分からなくもないのだ。

 だが、黎翔にとっては仕事を投げ出してでも下町に行くことの方が重要だった。


「―――見合いのことをお前がちゃんと言っていればこんな手間をかけなくて良かったん
 だ。」
「は?」
 小言が途切れたタイミングで言うと、李順の顔が怪訝そうに歪められる。
「知っていれば帰しはしなかった。」
「……まさか、」
 思い至ってまた李順の表情が今度は青に変わった。



「陛下? …あの、着替えました、けど。」
 しゃらんと帳が上がって、奥の寝室から夕鈴がおそるおそる顔を出す。
「ただ、髪型がどうなってるか分からなくて…」
 衣装は妃のそれだが、頭や化粧は見合いの時のままだ。
 彼女が動くと簪が涼やかな音を立てた。
「ちょっと待って。僕がやってあげるから。」
 黎翔は殊更に優しい言葉で彼女に微笑んで告げる。
 その隣で李順は青筋をますます増やしたようだった。

「夕鈴殿…?」
「あ、ただいま帰りました…」
 何故そこにと言わんばかりの視線を向けられて、夕鈴は気まずげに目を逸らす。
 次いで彼は黎翔の方へと視線を戻した。
「…陛下? 説明していただけますか?」
 メガネがぎらりと光る。
 見たままだろうにわざわざ説明を求めるとはよく分からないヤツだ。

「私という夫がいる身で見合いなどしようとしていたから連れ戻してきただけだ。」
 彼女の元に歩み寄って、簪をくるりと回して彼女の髪から外す。
 この簪もあの衣装も王宮には安っぽいが、男を魅了するには十分なものだった。
 諦めないと言ったあの男の顔が思い浮かんでしまい、苛立って舌打つ。

 夕鈴が魅力的なのは重々知っているけれど、それを知るのは自分だけで良い。

 私の愛しいただ1人の妃。
 君には私だけを見て欲しいのに。


「こんな可愛らしい姿をたくさんの男に見せてしまっただけでも許しがたいのに、これが
 私ではなく他の男のためというのだから。私はどうしたら良いのだろうな?」
 解けた一房を手にとって口付ける。
 そうしてじっと見つめると、顔を赤らめた夕鈴が息を呑んで固まった。



「―――どうもしなくて良いですよ。」

 その空気を破ったのは、その場にもう1人いた人物。
 ハッとした夕鈴が慌てて黎翔から距離をとった。
「陛下が抜け出されたおかげで仕事が滞っています。早くお戻り下さい。」
 じとっと見つめても李順は何食わぬ顔。
 ムードをぶち壊されたことを恨みたいが、これ以上滞らせてしまうと宰相から何を申し渡
 されるか分からないのも確か。
 それで夕鈴と過ごす時間を削られたら困る。

「……分かった、夕鈴の髪を解いたら戻る。」
 重い重い溜息をついて告げると、ようやく李順は許してくれた。
「お急ぎください。」
 では先に戻りますと、約束を取り付けた彼は足早に政務室に戻っていった。





「…仕方ないか。座って、夕鈴。」
「あ、はい。」

 手には銀の簪1つ。それを脇に置いて夕陽色の簪に手を伸ばす。

 1つ解く度に彼女との時間が終わっていく。
 これが終われば嫌で面倒なものが待っていると思うと余計に手が鈍った。


 ―――せめて少しでも今の時間が長く続けばいい。
 溜息をつきながら内心でこっそり願う。

 そのくらいのささやかな現実逃避をするくらいは許してもらいたかった。






2011.7.22. UP



---------------------------------------------------------------------


リク主のJUMP様にも他の方にも続き、と言われたので。
個人的にも消化不良だったので書いてみました。
良ければこの後日談までJUMP様に捧げます。

内容はあっさり読んでいただけると良いです。



BACK