木槿の花と銀の杯
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 厳しい暑さが続く夏のある日のこと。
 突然上司がこう言った。

「夕鈴殿、貴女泳げますか?」

「…はい?」
 質問の意図が分からなくて、夕鈴は動きを止めて聞き返す。
「泳げなくても水に入るのが怖くなければ良いんですが。」
「いえ、その辺は全く問題ないんですけど。何かあるんですか?」
 子どもの頃は郊外の川で遊んでたりもしていたわけだし。
 でも何故突然泳ぎとか水とかの話が出てくるのか。

「実は、夏の儀式の一つに"夏の清め"というものがありまして…」
 大ざっぱに説明されたが、要するに滝に住む龍神に国の繁栄を願う儀式だとのこと。
「陛下が即位されてからは一度も執り行わなかったんですが、今年は貴女がいますからね。
 やらないのかという声が挙がったんですよ。」
「はあ…」
 いまいちピンとこなくて夕鈴は曖昧に返事をする。
 宮中行事は庶民の夕鈴からは遠い世界で、そういうものがあるんだぁというくらいの認識
 だ。
「どうして今までやらなかったんですか?」
 陛下は元々行事とか恒例とかほとんどやってないらしいのだけど。
 素朴な疑問を口に出すと、聞いてなかったんですかとちょっと呆れた顔をされた。
「ですから、妃の仕事だからですよ。」
「へ?」
 そういえば、水がどうのとか今聞かれたんだっけ。
「貴方は陛下唯一の寵姫ですから、まあ妥当といえるでしょう。」
 今日からみっちり準備ですからね、なんてメガネをきらりと光らせて言われてビビる。
 儀式というならつまり、覚えることとかたくさんあるということで。

 所詮下っ端バイトの夕鈴に拒否権なんかなかったから、話は知らないうちにどんどん進め
 られていった。














*

















「つめたーい! でも気持ちいーッ」
 意外と深い禊用の泉に腰まで浸かり、ついでに頭まで潜ってみる。
 泉は禊ぎに使われるものだけあり、水中は澄んでいて奥まで見渡せるし水底はキラキラし
 ていた。
「ぷ、は」
 息が続くまで潜ってから水面に顔を出し、頭を振ると雫が散る。
 連日暑くて仕方なかったから、水の中は予想以上の心地良さだった。
 このまま奥まで泳いでいきたいなーなんて思ってしまう。


「遊びではありません。」
「はーい。」
 李順に注意されて、淵に立つ彼の方をふり返る。
 いけない。自分だけ楽しんでしまった。
 今日は例の儀式本番の日。何だかんだやるべきことをこなしているうちにあっという間に
 この日が来てしまった。

「―――手順は覚えていますね?」
「はい。まずは木槿の花を滝に捧げて、銀の杯に滝の水を注いで戻る。それから杯を陛下
 の前の棚に置いて、言葉を言えば良いんですよね?」
 手順と言葉は何度も練習して暗記している。
 緊張してドジさえ踏まなければ、よほどのことがない限り大丈夫のはずだ。
 人はたくさん集まるとのことだが、夕鈴が相手にするのは滝と陛下だから、まあどうにか
 なるだろう。
「言葉は間違わないでくださいね。」
「はい!」

 しかし、本当にいい天気だ。
 太陽は高くて日差しは強いし、午後からもっと気温は上がるだろう。
 だから余計に水の中が心地良いのだ。
 仕事がなければここでずっと泳いでいたいくらい。


「…でも、私はバイト妃なのに良いんでしょうか?」
 偽物だからとバチが当たったりしないだろうか。それはちょっと心配だった。
 自分にふりかかるのは良いんだけど、陛下に向かってしまったら困るなと思う。
「儀式といっても形だけのものですから。」
 そもそもは夏の暑さを水際で和らげるためのもので、李順に言わせれば無駄で意味のない
 行事。儀式とは名ばかりの風習なのだという。
 だから気にするなと言われた。
 それに本当に儀式だったら、禊ぎ中に李順がここにいることもできないはずだと。

「だいたいこの程度で天罰が下るのなら、ほとんどの儀式を行わない陛下はどうなるんで
 すか。」
「…それもそうですね。」
 神をも恐れない狼陛下か。あ、何かそれっぽいと思ってこっそり笑った。



「―――お妃様、お時間です。」
 近づく足音に2人は会話を止め、羽織物や大判の布をそれぞれ手に持った侍女達がやって
 くる。
 先に行くと李順が彼女達と入れ替わりにいなくなって、夕鈴は名残惜しく感じながら泉か
 ら出た。






























 滝の前にしつらえた屋根付きの席には主立った家臣達が座る。
 すぐ目の前を流れる水と飛び散る滝の水が涼しく、大きな扇で女官が扇げばさらに温度は
 下がった。
 …本来の目的が涼をとるためのものだから当然といえば当然だが。
 この儀式は年の間でも最も暑い時期に行われるので、堂々と涼をとれる数少ない機会。
 暑さで人が倒れる前にごり押しした甲斐があったというものだと、皆胸をなで下ろしてい
 た。



 陛下が姿を見せるとざわついていた場が静まり返る。
 表情の見えない彼の瞳に背筋を凍らせる者もいる中、彼はそれらを一瞥することもなく祭
 壇に立った。
 その雰囲気と冷たい瞳だけで十分涼しくなりそうだが、今日のメインはそこではない。



 合図が送られると陛下が「夕鈴」と名を呼ぶ。
 すると奥から名を呼ばれた妃が侍女を伴って現れた。

 会場が一度ざわりと沸き、再び静かになる。


 濡れた髪は結うことなく腰まで流れ、薄い紅以外は化粧もしていない肌は それでも白く
 瑞々しい。
 薄桃色の羽織の裾を器用にさばき、祭壇の前で1度立ち止まった彼女は陛下に拝礼して泉
 の端に立った。


 水だけが涼しげに音を鳴らす会場で、妃は前の滝を見据える。
 侍女の手で羽織っているものを脱がされて、白い内着一枚になった。

 ―――禊ぎの後そのままなので、全身が濡れ布が張り付いて身体のラインがはっきり見え
 る。
 薄い布地は肌が少し透けて見えたりするのだが、彼女は自分ではそれに気づかない。


「――――…ッ」
 間近でそれを見た"彼"が言葉を失くして息を飲んだのも、夕鈴は気付かなかった。







「あれが、お妃様かぁ……」
 儀式の観覧は自由なので、後ろの方では小声で若い官吏達が囁き合っていた。
 今日は政務室メンバー以外も妃の姿を見ることができるということで、裏は比較的年若い
 官吏でごった返していた。

「腰、細っ」
「ああっ ここからじゃ背中しか見えねぇ…!」
「戻ってくるとき見えないかなー」

 やはりその辺りに視線が釘付けなのが若い男陣。
 彼らがいるのは水場から遠く涼しくはないが、それでも鈴生りになっているのは目的がそ
 ちらだからだ。

「見えそうで見えないのって逆に良いよな。」
「つか濡れてるのって色っぽくね?」

 あからさまな会話のネタは尽きない。



「儀式を一体何だと…」
 袖にいる李順にはその声がはっきりと聞こえる。
 呆れ返る彼に、隣の浩大がケラケラ笑った。
「しっかたないじゃーん。男の悲しいサガってやつだよ。」
 笑いながら視線は夕鈴の方へ向ける。
 いつもと違う彼女を見つめ、浩大は面白半分で軽く口笛を吹いた。
「普段はきっちり着込んでるから分かんないけど、お妃ちゃんって意外に出るトコ出てん
 だよねー」
 この分だと帰りもまたざわつくかなーと、完全に面白がる体勢だ。

「――――…」
 その声が聞こえたのか、祭壇にいる陛下が不機嫌オーラで横目で睨んでくる。
 離れているのにさすがは狼陛下。たぶん、若い官吏連中の声も聞こえてるんじゃないだろ
 うか。

「なー これ、後どれくらいで終わんの?」
 水がなくても涼しい気分で浩大が李順に聞く。
「何故ですか?」
「陛下がブチ切れ寸前なんだけど。」
 その言葉に李順は眉間に皺を増やしたが、浩大は面白れーなーと再びケラケラと笑った。









 そんな裏の声は夕鈴には聞こえない。彼女に聞こえるのは滝の水音だけだ。
 枝と杯を持って静かに水に入る。素足に感じる水が心地良い。
 滝といってもそんなに大きいわけではないので激しい流れではない。
 足首ほどまでしかない水の抵抗はさして歩く妨げにはならず、石の足場を渡って夕鈴は難
 なく滝の前まで辿り着けた。

 滝の前に立って、まずは木槿の花を捧げる。
 夕鈴の手を離れて滝の水に流された白い花が水の中に散らばった。

 それから一歩前に進み出て銀杯に水を汲む。
 銀色が太陽に反射して輝き、水もまたきらきらと明るく光って夕鈴の目を楽しませた。

(って、のんびりしてる場合じゃないわ…!)
 気を取り直して杯を両手で持つと、零さないように 滝を背にして慎重な足取りで水の中
 を歩く。
 方々から視線を感じるが、杯に集中していれば次第に気にならなくなった。



 水から上がった夕鈴が杯をかざして祭壇の前まで行くとそこには陛下が立っていて、不機
 嫌そうにこちらを見ていた。

(…どうしたのかしら……?)
 今のところ失敗はしていないはずだ。
 その殺気にも似た何かは、夕鈴よりむしろ周りに放たれている気もして、人が知らない間
 に何かあったんだろうかとも思う。

 でも今は聞くこともできないし、目の前の儀式を滞りなく終わらせることが先決だ。
 今見たものをなかったことにして、銀杯を陛下の前の棚に置きその場に跪いた。



「―――龍神より、陛下への祝福を捧げます。

 この国がより良き繁栄を誇りますように、

 陛下の御代に、さらなる光が与えられますように、

 龍神の代弁者たる私の言葉を誓いと致します。」



 良かった、間違わずに言えた。
 後は立ち上がって立ち去れば終了だ。
 形だけだ何だと言われても、夕鈴にとっては失敗できない大事な仕事。それが無事に済む
 ことに心から安堵した。


(…あれ?)
 顔を上げた時に目が合った陛下が不意に動き、夕鈴の前まで降りてくる。
(え、こんなの予定にはなかったわよね…)
 予想外のことに内心焦るが、動揺を見せるわけにもいかずにただその場で彼の動きを見守
 るしかない。


「夕鈴、」
 手を、と言われて言われるがまま差し出す。
 その手を引いて夕鈴を立ち上がらせると、今度はじっと見下ろしてきた。
 機嫌がさらに降下しているような気がして、どうしたものかと次の行動を迷う。

「―――大役ご苦労だったな。」
 静かな声で夕鈴を労い、陛下は外套を脱ぐとそれを夕鈴に羽織らせる。
 そうして すいと視線を移した彼がその鋭い狼の瞳で周囲を睨むと途端に空気が凍った。


「きゃっ」
 突然横抱きに抱え上げられて思わず小さな悲鳴を上げてしまう。
 けれど、彼は空気も何もかもを無視して、そのまま夕鈴を会場から連れ去った。


『――――……』

 日差しの暑さも忘れるほどに凍りつき、沈黙した場に再び音が戻ったのは、それからかな
 り経った後だった。


























 硬質な足音だけが回廊に響き、夕鈴を連れ黎翔が向かうのは後宮の方角。
 その間に幾人かとすれ違ったが、雰囲気を感じ取った誰もが端に避けて拝礼するだけで声
 はかけなかった。

 傍から見ても分かるほどに自分は今機嫌が悪い。
 それは、腕の中の夕鈴も分かっているようだった。



「…陛下、外套が濡れます。」
「構わない。」
 前を見据えたままで切り捨てるように言うと彼女はぐっと黙り込む。
 彼女を怯えさせる気はなかったが、今優しい顔はできなかった。

「……何か怒ってます?」
 沈黙に耐えられなくて再び彼女が聞いてくる。
 その通りだったからそれには無言で返した。

「私、何か失敗しました?」
 勘違いした彼女がおそるおそる重ねて聞く。
 彼女は本気で気づいていないらしい。…そこが夕鈴らしいのだが。


「―――違う。失敗したのは私だ。」

 夕鈴は完璧だった。
 完璧だったからこそ苛立つのだ。

「許可など出さなければ良かった。」
「?」
「こんな君を、誰にも見せたくなかった。」
 肩に触れる手に力を込める。
 いつもは自分より体温が高い彼女も今日は濡れて冷たい。

 …それにまたあの姿を思い出して、動揺を押し隠すために唇を引き結んだ。


「? 何故ですか?」
 無垢な少女は思ったままに疑問を口にする。

 自分の姿が周りにどう映っていたかなんて、夕鈴には分からない。
 だから彼が言う意味も分かっていない。


 今日の儀式は涼をとるためと同時に男達の目を楽しませるものだ。
 男しかいない宮中らしい行事ともいえる。

 だが、それでも彼女の姿は予想外だった。
 普段見えない彼女の身体の線は男達の視線を集めるには十分で。

 "女"を意識せざるを得ないそれに魅せられたのは自分も同じ。
 同時にそれを衆人の目に晒すことに焦燥を覚えた。


「これ以上敵を増やしたくない。」
「てき…?」
 ここまで言っても夕鈴にはまだ伝わらない。
 今は鈍い彼女が憎らしかった。
 愛しい女性のそんな姿を誰が他に見せたいと思うのか。



「……本気で後宮に閉じ込めようか。」
 不穏な言葉を口にしながらも、一緒に漏れてしまうのは深い溜め息。
 人のものだと知っていて手を出そうとするのもいるし、今日のこれでまた敵が増えただろ
 うし。
 黎翔の気苦労は絶えない。

「でもそれだと陛下の力になれません。」
「……ああ。」

 真面目で優しくて純粋な彼女は黎翔の気持ちだけは慮ってくれない。
 伝えていないのだから当たり前だがちょっと切なかった。



 ああもう、どうしたら君は僕だけのものになるのかな。


 苛立ち混じりの独り言は、再びの溜め息と共に空気に溶かした。





2011.9.27. UP



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…そりゃ、自分の気持ち伝えちゃえば良いんだよ。(セルフツッコミ)


お題:「夕鈴が水着に着替えたら」水浴みでも可です。
意外と脱いだらスゴイ?夕鈴にクラクラな官吏&陛下(独占欲丸出し)で(原文)

というわけで。
お題からはちょっと外れるんですが、本編軸でいきたかったのでこうなりました。
あとコミックス派の人はすみません。浩大ちらっと出てます。
てか、せっかく夏らしいお題をもらったのに夏にできあがらなかった…ッ(悔)
ネタだけは夏の暑いときに考えてたんですけどねー(だからこんなに沸いてる内容なのか)
夕鈴視点だと単に不機嫌な陛下にしか見えなかったので、最後は陛下視点に。
なのでほぼ書き終えていた夕鈴視点をボツにしました。

木槿は、ムクゲと読みます。
夏の花で中国系の花で探していたら出てきました。
写真で見た感じだとこの辺りでも見たことあるので、知ってる人も多いのかな?

切るとこなくて今回は長いけど1ページになりました。


じやすみん様、キリリク(と書いて萌えと読む)ありがとうございました!
陛下をクラクラせずにイライラさせてしまってすみません(汗)
夕鈴はスタイル良いと思うんです。あの腰とか腰とか。
あと、何かキリリク消化してない気がします… 書いてるうちになんか変わってしまいまして…
返品依頼やご意見等ありましたら遠慮なくどうぞ! 年中受け付けていますので。




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ーオマケー
今回の景絽望さん(笑)

「あーいうカッコもソソるね。」
 音が戻った場で、傍観していた絽望がクスリと笑う。
「あんなお妃様が見れたのなら、こんな戯言紛いの儀式でも無駄ではなかったかな。」

 濡れた天女の艶やかな姿。
 艶と色と、普段の彼女ではない彼女にまた魅せられた。
 女性というものは本当に次々と新しい面を見せる。
 しばらく夢に見そうだ。

「ま、その分陛下は不機嫌だったけどね。」
 この儀式とやらが、涼をとるとともに男の目を楽しませるためのものであるというのは周知のこと。
 宮中は男ばかりだから分からないでもないが、お妃様を慈しんでやまない陛下が面白く思わないのは当然だ。

「君もそう思わないかい?」
「…お前の頭はそれしかないのか。」
 隣の方淵は呆れ顔だ。
 このカタブツは、あれを見ても何とも思わないらしい。
 ある意味すごいなと思いながら、そんな彼だからこういうことを言えるのだと思った。

「お妃様に関してだけだよ。」
 笑って答えるといつものように溜息が返ってくる。
 その反応にもすっかり慣れて、絽望はもう一度声を上げて笑った。
 
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本編に入れ損ねたので(笑)

 


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