傷痕 2




 その日も黎翔は明け方に自室に戻り、結局眠れずに日が昇るのを眺め見た。
 そうしていつものように時間を見計らって、寝室から出る。


「おはようございます、陛下。」
 いつもなら女官達が拝礼して待つ部屋に、いつもと違う声が響いた。
 弾かれるようにそちらへ目を向けると、すでに全ての準備を整えた妃が女官達の最前列に
 立っていて。

「…夕鈴?」
 その声に応えるように、彼女はにこりと微笑む。
「はい。朝食の準備はできているそうですから、私はそちらでお待ちしています。」
 つまり一緒に食べましょうと。
 今まで一度もなかったことにすぐに答えが返せない。

 そして黎翔が何かを言う前に、彼女は一礼をしてその部屋から出ていった。










「朝をご一緒するのは久しぶりですね。」
 当たり前のように前に座って箸を進めながら、彼女はそんな風に笑って告げる。

 つい先日まで確かに朝の食事も一緒だった。寝起きを共にしていたのだからそれは自然な
 流れだ。
 けれど今日は、彼女がわざわざ黎翔の部屋を訪れて、彼女から一緒にと言いだして。
 一体何事だろうと思いながらも、考えはまとまらない。


「今日は良いお天気ですから、庭園に散策に出かけませんか?」
「残念だが…」
 優秀な臣下達のおかげで、今日も1日仕事の予定がびっしり入っている。
 夜に彼女に会いに行けるか行けないか。それくらい忙しいのだ。
「陛下は今日一日お休みですから。」
「…え?」
 さらっと告げられて、思わず箸を持つ手が止まる。
 目の前の彼女はさっきと同じように、にっこりと微笑んでいた。
「どうしても一緒にいたくてもぎ取りました。ですから、今日は私にお付き合いください
 ませ。」
「……え?」

 本当に、一体何が起きているのだろう。

 ―――思考が鈍って上手く働かない。






















 人の手によって整えられた庭園は今日も美しい。
 日差しは暖かく、光に照らされた花も水も石も緑も輝いて見える。

 しかし、黎翔の目にはそのどれも目には入らない。
 彼の目には、前を行く彼女の姿だけしか映っていなかった。


「夕鈴、無理はするな。」
 どんどん先に行ってしまう彼女を止めるつもりで声をかける。
 けれど振り向いた彼女は大丈夫だと言ってまた笑った。

 今日の彼女はよく笑う。
 …全ての感情が鈍っている自分とは正反対に。

「無理などしていません。このところは体力を戻すために毎日歩いているんですもの。」

 このところ政務室には呼んでいない。今の彼女を長時間座らせるのは酷だと思ったから。
 掃除のバイトは傷に障るからと止めていた。

 だからか、退屈な彼女は毎日外に出ていたらしい。


 彼女は行きたい場所があるらしく、その足取りに迷いはない。
 付き従う侍女達も何も言わず、黎翔も好きにさせていた。








 そうして一体どこまで行くのかと思ったところで、彼女の足がようやく止まる。
 黎翔が追いつくのを待っていたようで、隣に並ぶと夕鈴はその後ろの侍女達にここまでで
 良いと告げた。

「ここからは2人で。時間になったら呼びに来てください。」
 彼女達はそう言われることを知っていたらしい。
 特に躊躇うことも言うこともなく、一礼して戻っていった。




「―――こちらです。」
 彼女達を見送った後にそう言って黎翔の手を引くと、夕鈴は今まで歩いていた小道から逸
 れる。
 かさりと音を立てながら器用に茂みをかき分けて、彼女は奥へと進んでいった。


「浩大に教えてもらったんです。」
 目的の場所にはわりと早くたどり着いた。
 茂みに隠れた芝の上、大きな木の根元に黎翔を導いて、彼女はそこで手を離してその場に
 ぺたりと座り込む。
 着物が汚れるとか、そんなことは微塵も気にしている風でもない。

(というか、この場合僕はどうしたら良いんだろう…)

 ぼけっと突っ立っていると、夕鈴が手招きで黎翔を呼んだ。
 座るようにと指示されて言われるがままに膝をつく。すると突然伸びてきた腕に首の後ろ
 を引っ張られた。


「??」
 ころんと身体は横になって、頭は柔らかなものに乗せられる。
 いわゆるそれが膝枕なのだと気づいた頃に、鈴のような笑い声が上から降ってきた。

「お昼寝にはちょうど良い場所でしょう?」
 ちらりと目を向けると彼女の薄茶の髪が日の光に透けて輝いて見える。
 それが眩しくて目を細めると、彼女は影を作るように黎翔の頭にそっと手を乗せた。
「浩大が見ていてくれますから、ゆっくりお休みください。」
 そこで彼女が言わんとしていることにようやく気づく。
 全ては黎翔を気遣ってのものだと。
「ちゃんと寝ないと倒れてしまいます。」

 ―――思考が鈍っているのは寝ていないからだ。
 今の今までそれにも気づかなかったほどに。

 一体どれだけ寝ていなかったっけ。
 そして、それよりも、、


「…知ってたの?」
 黎翔がそこにいる間、ずっと彼女は夢の中だった。
 だから大丈夫だと思っていたけれど、どうやら違っていたらしい。
「いくら何でも毎晩来られたら気づきますよ。」
「…ごめん。」
「私のせいですから謝らないでください。」
 苦く笑った彼女が頬に触れてくる。
 顔に落ちた髪を払って優しい手つきで梳いてくれた。

 ―――それはまるで母親のような優しさで。

「起きるまでこうしていますから。」
「うん…」
 けれど彼女は母親ではない。黎翔が彼女に求めるのは、母性ではないから。
 髪に触れる手首をさらって手のひらに口づけて、赤くなる彼女に微笑む。
「握ってて良いかな…?」
 手のひらに吐息がかかってびくりと震えても、彼女は手を引こうとはしなかった。
「どうぞ、お好きに…」
 衣の袖口から控えめに香が薫る。
 彼女の香り、抱きしめて眠っていたときと同じ。
 …これが安らぐという感覚だろうか。

「ゆー、りん……」


 身体は休養を求めていたらしい。
 指を組もうと思って…、思っただけで。

 動かす前にすとんと意識が落ちてしまった。










「良かった…」
 規則正しい息づかいと安心しきった寝顔にホッとする。
 顔色も良くなったみたい。


 ―――ある日陛下が全然眠れていないのだと気づいて、浩大にそれが夕鈴と別々に寝るよ
 うになった日からだと聞いて。

 軽率だった己の行動を悔いた。
 陛下の傷は夕鈴が思うより深かったのだと知って。


 私のせいだから、私にできることを精一杯考えた。
 結局できるのはこれくらいしかなかったけれど。



「…陛下 寝た?」
 しばらくして、小さな声だけが上から降ってくる。
 姿は見えないけど、彼はずっとそこにいてくれていた。
「ええ。浩大、後はよろしくね。」
 頭上に生い茂る緑に向かって微笑む。
 すると微かに葉が揺れた。

「もちろん。名誉挽回させてもらうヨ。」
 浩大も夕鈴に傷を負わせてしまったことを悔いていた。
 それについては少し前に和解しているけれど。

「ありがとう。」
 これで浩大も少しは気が楽になるかしら。





 強く握られたままの手首を見下ろす。

 失うことがそんなに不安なの?
 何か、失ったことがあるの?
 失って、後悔するような何かがあったの?

 疑問がいくつも浮かぶ。
 …それを口にすることはないけれど。




「…大丈夫ですよ、陛下。」

 私は貴方を1人にしないと誓いました。
 寂しがらせないと言いました。

 私は貴方の味方でいます。裏切りません。

「貴方のそばにいますから。」

 失うことが怖いなら、貴方がそれを望むなら。
 私が、それを叶えます。…この想い 押し殺しても。




2012.1.9. UP



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今回は珍しくリクエストではないですね。
たまたまポメラを開いたら、何故か止まらなくなって書き上げてしまいました。

拍手に最初の部分だけちらりと書いてた「失えない」の続編です。
『傷痕』は夕鈴の身体の傷と陛下の心の傷の意。
明らかに陛下の方が重症…(汗)
そんな感じで陛下がまだ病んでますね。
なので夕鈴に救済してもらいました。

怪我をしたのは夕鈴なんだけどな…と思わなくもないけれど。
夕鈴は母性の人っぽいので、自分より他人なんだろうなと思う。
 


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