「何が狼陛下だ。」
 闇の中、静かな声が部屋に落ちる。
「小賢しい若造が。我ら旧臣の言葉も聞かず、好き勝手しおる。」


「―――私にお任せ下さい。」
 何人か控えていた中で、1人の男が前に進み出た。
「…何か策があるのか?」
 相手はその実力を持って"狼陛下"と呼ばれる男だ。並の腕では敵わない。
 疑いを含んだ問いに、男は自信ありげに頷いた。

「油断していればどうでしょう。」
 手にした愛器を持ち上げて、彼は愛しげにそれを見つめる。

「最も近しく… 愛しい者にも手が出せますかね。」
 そう言って男は薄く笑った。













    世界で最も愛しい刺客
「―――綺麗な笛の音。」 音に惹かれて夕鈴はふと足を止める。 緩やかな風のような音色。離れがたくなるほどのとても澄んだ音。 「旅の楽士団の方ですわ。」 夕鈴の視線を追いかけた侍女が、後ろからそっと教えてくれた。 「陛下がお呼びになったの?」 「いえ、大臣のお一人がぜひにと。」 確かにこれだけ素敵な音色ならその人が推すのも当然だ。 (この音色を耳にすれば、陛下も少しは癒されてくれるかしら…?) そんなことを考えながら再び音に耳を傾けた。 (けれど、なんて心に響く音…) 自然と涙が零れる。 拭う気にはなれなくて、流れるに任せて見つめていた。 「何に泣いている?」 不意に頬に流れ落ちるそれをそっと拭われる。 顔を上げると、自分の旦那様…もとい、陛下が心配そうに見下ろしていた。 狼陛下なのに夕鈴を案じてくれる気持ちは本物で、演技なのになんて器用な人だろうと思 う。 「いえ、あの音があまりに素晴らしくて…」 風に流され聞こえてくる音色は変わらず澄んでいる。 そちらに目を遣れば再び涙が溢れそうになるけれど、その前に陛下の手に囚われた。 「…私の声よりあの笛の音の方が良いと申すか?」 少し不機嫌そうに、しっかりと夕鈴の肩を抱いた彼は夕鈴の顔を至近距離から覗き込む。 「私の言葉よりも、あの音に心動かされると?」 顎を捉えられ、視線を逸らせない距離で見つめられて心臓が飛び出そうになった。 「!? そ、そういう意味では…!」 「―――君が聞くのは私の声だけで良い。」 「!!?」 さらに近づいた彼から耳元に注がれる甘い声に真っ赤になる。涙もすっかり引っ込んでし まった。 仲睦まじい国王夫妻と、それをにこにこと見守る侍女達。 そんないつもながらの光景を、見つめる男が1人。 その男の、歪んだ笑みに気づく者はいない。 * 「今夜はやけに静かだな…」 ふと回廊の途中で足を止め、黎翔は闇に包まれた空を見上げる。 風が吹いていないからだろうか。 今夜は、雲に隠れて月も見えない。 …感じるのは違和感か、何か起こりそうな予感か。 「それでですね、―――…」 夕鈴の部屋を訪れ、いつも通りの夜を過ごす。 彼女が一生懸命話すのを笑って聞く、それはいつもと変わりない光景だ。 今のところ特に変わった様子はない。 彼女の話を聞く裏で周囲の気配を探るが、そちらも別段普段と違いはなかった。 気のせいかと少しだけ気を緩める。 せっかくの夕鈴との楽しい夜なのに、心から楽しめないのはつまらないから。 「―――あれ、すみません。」 お茶のおかわりをと手にした夕鈴が中身がなくなっていることに気づく。 「お湯を替えてきますね。」 「うん、ありがとう。」 それもよくあることなので、彼女が盆を手に出ていくのを見送った。 ―――しかし、それが過ちだったと後で気づくことになる。 風のない夜に響く美しい笛の音色。 「―――――」 その音に誘われるように顔を上げて夕鈴は外を見る。 心の奥、頭の隅にまで入り込むような音。 けれど昼間と違って涙は流れない。同じように心に響く音なのに。 代わりに、その音の向こうで誰かの声がする。 『――――…セ。』 「……ッ!」 くり返しくり返し響く声。その声に夕鈴は抗えない。 嫌なのに、ダメなのに。 その声は深く入り込んでくる。 「……」 頬を一筋 滴が流れ、彼女の瞳から光が消えた。 「夕鈴?」 戻ってきた夕鈴の様子がおかしいことにはすぐに気が付いた。 足取りもおぼつかなく、俯いた表情は見えない。 「……ヲ、…セ。」 彼女の唇から漏れた音は小さすぎて聞き取れない。 その手元で、何かが煌めいた。 「―――!」 思いがけない彼女の行動に油断したのは確か。 それでも寸でのところでそれを避ける。 「夕鈴っ?」 何が起こっているのか分からない。 呼びかけに応えたのではないだろうが、睨み上げられて固まった。 ―――彼女が向けたのは、殺気。 「殺セ。」 短刀を握りなおし、再び彼女は黎翔へと斬りかかる。 「ッ」 黎翔にとって素人の手を避けることは造作ない。 彼女を傷つけないためにも、今は逃げる方を選んだ。 (何故"ここ"に、そんな物が…!?) 彼女の手に握られているものに愕然とする。 もしもの為だ。後宮には凶器になり得るものは一切置いていない。 なのに、何故彼女の手にそんなものがあるのか。 (…違う、そうじゃない。) 違う方に向かいそうだった思考を無理矢理戻す。 考えたくないものから目を逸らしている場合じゃない。 ―――何故夕鈴が、自分の命を狙うのか。 彼女を信じられなくなったら、もう何も信じるものがなくなる。 黎翔の中にある、たった一つの真実が。 「狼陛下ヲ殺セ。」 「!!」 彼女の攻撃には一切の躊躇いがなかった。 それは自分の身を守ることすら考えていない危険なものだ。 狙われているこちらが心配してしまうほど。 しかし、そこで気がつく。 「まさか、操られて…?」 虚ろな瞳は黎翔を見ているが黎翔を映してはいない。 声に応えないのもそのせいか。 彼女の意志ではないのなら、彼女は黎翔の味方のままだ。 黎翔はたった一つの真実を失わずに済む。 かといって、状況は何ら変わりないのも事実。 手が出せないのだ。 下手をすれば夕鈴を傷つけてしまう。 (…それが狙いか。) 実に的を射た人選だと思った。 頭が良すぎて嫌になるくらいだ。 「夕鈴…!」 物音に気づいて誰かが駆けつけてくるのも困る。 時間がなかった。 気を失わせるか、武器を奪うか。 彼女を傷つけないためには――― 怪我をするのが自分なら構わないか。 多少の怪我や痛みくらいなら慣れている。 逃げるのを止めて、正面から彼女が飛び込んでくるのを待った。 「――――――!!」 けれど、凶器は黎翔まで届かなかった。 あと一歩というところで彼女の足が踏み留まる。 「イヤッ!」 短刀を持つ自身の手首を掴んで、夕鈴が涙を流していた。 「ゆ、りん…?」 確かに意志を持った瞳。 呆然とする黎翔の前で、彼女は自分に必死で抵抗する。 「ダメ! 陛下、逃げてください!」 その時覚えのある旋律が室内に紛れ込んできた。 その笛の音に、夕鈴の身体がびくりと震える。 (――――あれか!) 昼間夕鈴が涙を流したあの音。 あの時すでに彼女は術中にあったのか。 「止めて! 私の中に入ってこないで!!」 音に抗い彼女は声を張り上げる。 「私は…ッ 私の意志は私のものよッッ」 「夕鈴!」 夕鈴が自分に刃を向けたのを手首を掴むことで止め、隙をついて気を失わせる。 「――――…」 そうして腕の中に落ちてきた彼女を抱き止めて、華奢な身体を優しく抱きしめた。 「…ありがとう、夕鈴。」 やっぱり君は僕の味方だった。 君だけは信じて良い。信じていられる。 「助けてくれて、嬉しかったよ……」 「チッ」 失敗を悟り、男は逃げるためにさっさと踵を返す。 闇の中に紛れてしまえば、誰にも見つからない。 「無駄だ。」 「!?」 その行く手を阻むように、音もなく彼は屋根に降り立つ。 闇の中でもそこだけは光っているように見える鋭い瞳が、竦む男を真っ直ぐ射抜いた。 「―――この私から逃げられると思うな。」 纏う雰囲気も低い声も、相手は従わずにはいられなくなるもの。 威圧感に満ちた存在を前にして男は動けなくなる。 「…クッ」 それでも渾身の力を振り絞って男が構えた"それ"を蹴り上げ、男が慌てて手を伸ばすより 早く奪う。 「無駄だと言ったはずだ。」 見た目は何も違わないただの横笛だ。 だが、これが夕鈴に何をしたか。手にしてさらに怒りがこみ上げる。 「…悪趣味な玩具だ。」 両腕に力を入れ、笛を真っ二つに割った。 それを投げ捨てると、今度は使い慣れた剣を腰からすらりと抜き取る。 「この私が自ら手を下してやろう。栄誉なことだろう?」 「!!」 本気の殺気を感じ取り男は青褪める。しかし足が動かない。 黎翔には固まってしまった男のことなどどうでも良い。 表情を消したまま、不安定な足場を意に介すことなく強く蹴った。 「や、やめ… うわぁ!?」 『陛下の敵が減らないでしょう!?』 不意に彼女の声が響いて、刃の先が男に届く直前で手が止まる。 風で男の前髪が切れ、はらりと落ちた。 「…ッ」 男は腰を抜かしてそこに座り込む。 戦意はすでになく、ただそこでがたがたと震えていた。 私の…僕の心に響くのは、君の言葉だけ。 (―――そうだね。) 僕の敵が減らないと、君の命が危なくなる。 それは嫌だなと思った。 「…気が変わった。殺しはしない。」 剣を鞘に収め、狼陛下が愉しげに笑む。…冷たく。 「―――その代わりに、死より恐ろしい世界があると教えてやろう。」 その後男は、狼陛下を敵に回すことの恐ろしさを身をもって知った。 結局、事後処理を全て済ませたのは朝方。 その後様子を見に彼女の部屋をこっそり訪れると、彼女はもう寝台の上で目を覚ましてい て。 黎翔を見ると途端に申し訳なさそうな顔をした。 「あの、昨夜は私 いつの間に寝ちゃったんでしょう…?」 途中から全く記憶がないのだという。 何も覚えていない彼女に安堵して、黎翔はふわりと笑う。 「話の途中だったかな。疲れてたんだね。」 「す、すみません…」 寝台の上で小さくなってしまった彼女にまた笑った。 「大丈夫。その分可愛い寝顔がたっぷり見れたから。」 「!!?」 覚えてないならそれで良い。 知ってしまえば、君はきっと自分を責めるから。 大丈夫、何もなかった。何も変わってないよ。 ―――君はいつだって、僕の味方でいてくれると分かったから。 2012.1.13. UP
--------------------------------------------------------------------- ただただ欲望のままにベタネタを書きたかった。 これはずーっと前の話なんですが、とあるサイト様の日記でこういうネタ呟かれてて。 うわ、書きたいなーってずっと思ってて。 でも書き上がらなくてネタ帳に放り込んでて。それがようやく書き上がったわけです。 ご本人も覚えてらっしゃらないだろうし、こっそり捧げておきます(笑) まあ、書いていくうちにだいぶ違う話になっちゃってますしね〜 分からないかなと。 私もあの歌好きです。たまにカラオケで歌います☆ てか、浩大がいないんですよ これ。 つまりそれくらい昔のネタってことですね。 時系列的には1〜2巻ぐらいじゃないかな?と自分では思ってます。 本編には陛下を狙う刺客はいないんですが… ひょっとしたら夕鈴が知らないだけなのかなとか。(基本的に夕鈴視点で話が進んでるので) 2話で慣れてるって言ってましたしね〜


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