「碁でもしようよ。」
 そう誘われたのは、登用試験の話をしたすぐ後のこと。

 ―――この人は昨日から我が家に滞在しているお客様にして姉さんの上司にあたる人だ。
 名前は李翔さんというらしい。
 …恋人なのかは、姉さんが全否定するから本当のところどうなのか分からないけれど。

「あ、はい。」
 どうせ集中なんかできなかったから青慎はそれに頷いた。








    兄弟
「…へぇ、夕鈴より君の方が強いんだね。」 初めてまだ半分も経たないうちにそう言われた。 え、と思って青慎は盤から顔を上げる。 「姉さんともあるんですか?」 「うん、たまにね。」 いつどこで、とは聞いてはいけない気がする。 掃除婦とその上司にそんな時間があるのかとか。…深く考えてはいけない。 「……そうですか。」 だからそれ以上は聞かなかった。 パチン、パチンと、碁石を置いていく音が部屋に響く。 この人は、ものすごく上手なんだと思った。 今は青慎のために手を抜いてくれている。それくらいは分かるから。 でも、手加減は要りませんなんて絶対に言えない。…姉さんなら言いそうだけど。 「―――青慎君って四書五経は暗唱できるの?」 また一つ、軽い音を立てて碁盤に黒い石が乗る。 そういえばこの人も官吏なのだと思って、自分が目指す先にいる人をじっと見た。 …この人も、この試験を乗り越えた人なのだ と。 「ん?」 何かと問われて何でもないと返す。 さすがに今のはちょっと不躾すぎたかもしれない。 「えっと、五経はまだですけど 四書はある程度…」 「もうそこまで?」 まだ13なのに、と彼は目を丸くする。 でも、他を知っている青慎からすればまだまだな方だ。 「僕より早い人もいますよ。」 「へーそうなんだー みんなすごいね。」 感心したように言う彼は、純粋に驚いているようだった。 ―――四書五経の全てを覚えるならばその量は62万字に及ぶ。 しかし、その途方もない量を暗記しなければ試験に合格することはできないのだ。 もちろん他にも必要な教養はあるけれど、まずはここを越えなければ先には進めない。 「せっかく良いところに通わせてもらってますから、無駄にできません。」 「へ?」 李翔さんが意外なものを見るような目で青慎を見る。 「―――という、姉の受け売りです。」 続きを言ってにこりと笑うと、ようやく納得という顔をされた。 「ああ、夕鈴らしいね。」 この人は姉さんのことをよく見てるなと思う。 そして、どんな姉さんを見ても聞いても「可愛い」と言う。 こういうの、『恋は盲目』っていうんだっけ? 「君達姉弟はほんとしっかりしてるね。」 そう言って、穏やかに優しく笑いかけられる。 姉さんに向けているのとは少し違うけれど、この人に自分も認められたような気がした。 「…ほんとに、君みたいに真面目でしっかりした官吏ばかりだったら僕も楽なのに。」 ふぅと溜め息を付くその表情は、昼間に破落戸や警備兵の話をしていたときと同じ。 「楽?」 一介の官吏が使う言葉にしては少しおかしい気がして青慎は首を傾げた。 実はけっこう上の立場の人なのだろうか? でも、姉さんの上司ならそんなに高いはずないんだけど。 「こっちの話。あ、そうだ、こんなの知ってる?」 青慎の疑問をさらっと流して、あっさり話題を変えられてしまった。 でもそれ以上問いつめる理由もないしとそのままにする。 「登用試験ってね、カンニングの宝庫なんだよ。」 「えっ?」 自分の分の白い碁石を置く前に思わず顔を上げてしまった。 目が合うと、彼は面白そうに笑う。 「もう可能な限りの方法は出尽くしたと言われてる。」 そこを目指す者として真面目に勉強している身としては、それには驚かずにいられない。 ちらりと噂は聞いたことがある気がするけれど信じてはいなかったし、こんなにはっきり と言われたのは初めてだった。 「ほら、試験って基本的に暗記でしょ? だからね、ありとあらゆる方法でいろんな場所に 書き込むんだよ。聞いた中で1番面白かったのは 動物の腸に書くやつかなー」 「ええっ? 腸にですか??」 そんな考えも付かないことにまた驚かされる。 その反応が嬉しいのか、李翔さんはさらに話を続けた。 「そう。その腸の端を糸で縛って奥歯に括りつけてね、喉に隠しておくんだ。で、終わっ てから食べてしまえば証拠は残らない。」 「うわぁ…」 感心すればいいのか呆れるべきなのか。 そんなことを必死に考えるより、まともに覚えた方が良いんじゃないかと青慎は思う。 「でも、そんなので受かってもすぐにボロが出てしまいそうです。無意味だと思うんです けど。」 碁石を置きつつ 素直に思った通りを言葉に出すと、李翔さんはそれにきょとんとした。 ついで、ふっと柔らかく微笑む。 「さすが、夕鈴の弟くんだね。」 そう言う彼は、どこか嬉しそうに見えた。 「…じゃあ、最後の試験は知ってるかな?」 「殿試のことですか?」 答えると、彼は静かに頷く。 「そう、王自らが試験者を試す最後の試験。―――良いこと教えてあげる。あの場では今 までの勉強は無意味だよ。ついでにコネもね。」 「…ッ」 笑顔のはずなのにどこか冷たい気がしてぞくりとする。 「あの場で王が見るのは、王にとってその者が使えるか否か。それを王自身が見極める。」 王が選ぶ者―――狼陛下の目に適う者。 前王の時代とは違う。きっと、あの方の前ではどんな小細工も通じない。 「君は君らしくいれば良い。…それを覚えていて。」 最後、声が優しいものに戻った。 知らないうちに詰めていた息を青慎はそっと吐き出す。 「―――あ、ごめん。僕の番だったね。」 今のは幻だったんだろうか。もういつも通りの彼だった。 「よし、もう一回!」 終わった途端に、またさっきと同じセリフ。それに青慎は驚く。 「えっ もう6回目ですよ??」 「だって青慎君強いんだもん。面白いんだ。」 にこにこと、本当に楽しそうに。 そう言われるとこちらも断りにくい。 「悪かったですね。どうせ私は弱いですよッ」 「姉さん!」 「夕鈴っ」 いつの間にそこにいたのか、入り口に姉さんが立っていた。 振り返った李翔さんは笑顔で姉さんを迎え入れる。 …餌を前にした小犬のような、嬉しそうに振られる尻尾が見えるのは気のせいだろうか。 「夕鈴も強いよー でも青慎君も強いんだ。」 「それは当然です。青慎はご近所のおじさん達にも負けないくらい強いんですから。」 姉さんはまるで自分のことみたいに自慢気に話す。 そういうのはちょっと恥ずかしいんだけど、でも嬉しくもある。 そして姉さんが認めてくれている。それはいつも自信に繋がった。 「…まだ几鍔さんには勝てませんけど。」 「あんな奴の話はしなくて良いのっ」 几鍔さんの名前を出すと姉さんはいつものように怒り出す。 僕にいろいろ教えてくれるし、気にかけてもらってるお父さんみたいな人なんだけど。 …あ、お父さんはさすがに怒られるか。みんなみたいに"兄"が良いかな。 「ね、青慎君。もう一回しようよー」 「あっはい。」 その声でこちらに意識が引き戻されて、2人で互いの碁石を集め盤上をまっさらにする。 姉さんも手近にあった椅子に腰掛け、今度は姉さんも見ている中での対戦になった。 「あ―――こういうときはこっちに置く方が良いよ。」 李翔さんは対戦中もアドバイスをくれる。 確かにそれは思いもよらなかったとても良い手で、とっても勉強になった。 でも、それでも勝てないから、李翔さんは本当に強いんだと思う。 黒い碁石と白い碁石が綺麗に並ぶ。 でも、2度とは同じ形にはならない。それが面白い。 「…何だかほんとの兄弟みたいですね。」 横で姉さんがふふっと微笑って言う。 うん、僕もそう思っていた。そう姉さんの言葉に無言で頷く。 「僕達が結婚すれば本物の兄弟になるよ。」 今度は李翔さんがにこっと姉さんに笑いかける。 というか、今さらっとすごいこと言った。 「!? 何言ってるんですかッ」 そしてやっぱり姉さんは顔を真っ赤にして怒りだす。 「えー」 その反応に李翔さんは残念そうな顔をして。 「からかうのも大概にしてください! 青慎ッ違うからね!?」 李翔さんに釘を刺した後で、今度はこっちに矛先が向く。 姉さんはどうしても違うと言いたいらしい。 もしそうだったとしても、僕は反対したりしないのに。 「うん、分かったよ。」 でも、どう答えたら1番姉さんが安心するか分かってたから。 だから、姉さんが欲しい言葉を選んで笑顔でそう答えた。 2012.6.18. UP
--------------------------------------------------------------------- 聖様に捧げる第2弾。 ほのぼのノリで、3〜4巻の下町編の2日目夜ってところです。 キリリクが本誌ネタバレだったので、何か他にも本編軸のをと思って同時更新になりました。 リクは「陛下と青慎が仲良く遊んでいる」だったんですけど、前半全く違う感じに。 理由は、私が科挙のカンニングネタを入れたかったからです!(オイ) ここ逃したらもう入れるタイミング(てゆーかネタが)ないと思って。 カンニングの件は国語の時間に聞いた話です。 科挙にはありとあらゆるカンニング方法が存在してたらしく、そういうのを集めた文献が残ってるそうです。 その話があまりに面白かったので使ってみました☆ そして、青慎は夕鈴の弟なだけにそういうの絶対しなさそうだなぁと。 陛下は所々青慎を試していますね。もう試験は始まっているのか!怖いな!! 何だか青慎がシスコンっぽくなってますね… 「ある休日の〜」に引きずられたかも(苦笑) ま、姉弟仲良し!は私のデフォルトですけど☆(ええ、種の頃から)


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