狼陛下のお知り合い?




 最近夕鈴は新しいバイトを始めた。

 雇い主は―――… 仮の恋人。







「―――そこの娘。」
 最初は、その人が誰を呼んでいるのか分からなかった。

「お主じゃ、お主。」
「はい?」
 どうやら呼ばれているのは夕鈴だったらしい。
 そう思い至って雑巾片手に振り返ると、部屋の入口に見知らぬおじいさんが立っていた。

(…? ここって関係者以外は入れないんじゃなかったっけ?)
 そう思ったけれど、そのお年寄りは全く気にする様子もなく、そして遠慮無く中に入って
 くる。
 辺りを軽く中を見渡してから、その人は夕鈴へと視線を戻した。

「お主、何をしておるんじゃ?」
「何って、見ての通り掃除ですが。」
 ジャージに着替えて 埃防止の頭巾とメガネを装着。手には雑巾、足下には水が入ったバ
 ケツ。
 これを掃除と言わずして何と言うのか。
「ほー。誰の許可を得てここにおる?」
「会長ですよ。」
 一体何なのかと思いながらも、一応律儀に返答してみる。
 でも、時間がないから掃除は再開させた。


 ―――ここの掃除は、"バイト"ということになっている。
 そして夕鈴の雇い主は、狼陛下…もとい会長だ。

 夜のバイトは危ないからと、ほぼ同額のバイト代で生徒会専用の資料室の掃除をすること
 になったのだ。
 李順さん曰く、『そろそろ業者を入れるつもりだった』ということなので、彼も夕鈴が掃
 除することには異論はないらしかった。

 …まあ、業者を入れるというのも分からないではない。
 通称"腐海の森"、もしくは"魔の巣窟"。誰も足を踏み入れない恐ろしい場所とのこと。
 つまり、資料室とは名ばかりのただの物置だ。
 長年誰も片付けず、さらに年々物が増えていくので、ついに誰も手が付けられなくなった
 らしい。

 どうにかしたかった李順さんと、夕鈴に夜のバイトを止めて欲しい会長との意見が一致。
 さらに、夕鈴も掃除は嫌いではなかったからそれを了承した。


「では、お主が狼陛下の恋人とやらか?」
「…はあ、まあ……」

 どうして知っているんだろう、と思う。
 掃除と恋人がイコールで繋がる人なんて、普通はいないと思うんだけど。

「…あの、貴方は?」
 不思議に思って聞いてみる。
 普通のおじいさんじゃない…と思った。
「わしか? わしは張元。周りは張老師と呼ぶ。」

 …名前より役職を知りたかったのだけど。
 本当に何者なのかしら。


「しかし、よもやあの方が一般人を選ぶとはの。」
 それは独り言だったのかもしれないが、夕鈴はつい反応してしまった。
「やっぱり普通じゃないんですか?」

 恋人役を引き受けてから時々聞こえる声。
 会長はいつも気にしないで良いと言うけれど。全く気にしないわけにもいかなくて。

「そりゃあな。金持ち連中は無駄に自尊心が高いからの、家柄だの格式だのを重視する。
 そしてそこに当てはまらない人間を下等と見なして排除しようとする。―――ま、あの方
 はそんなもん気にされんのだが。周りはどうかの。」

 そう言うこの人はその類の人間ではないようだ、というのは分かった。
 ますます正体が謎になったけど。


「頑張れ掃除娘。」
 そう言われてポンと肩を叩かれる。
 まさかこれは激励のつもりだろうか。
「…はあ、」
「返事ははっきりとせい!」
 曖昧に返したら今度はびしりと怒られた。
「はいっ!」
「よろしい。」
 慌てて言い直すと満足そうに頷かれる。
 そうしてその人は、来た時と同様にあっさりといなくなった。


(…結局、何だったのかしら?)

































 掃除バイトの日は会長の仕事が終わる頃まで掃除をして、夕鈴の家までは一緒に歩いて帰
 る。…というのが恒例になった。
 これも一応仮の恋人としての役目らしい。

 話すのは本当に他愛もないことばかりだけど、彼はそれが楽しいと言って笑っていた。



「―――そういえば今日、変なおじいさんに会ったんですけど。」
 会話の途中で思い出して、資料室であったことを簡単に説明する。
「ひょっとして、張老師?」
「あ、はい。」

 あ、実在の人なんだと、すぐに返ってきた答えを聞いた時思った。
 ちょっとだけ、幽霊とか…そっち系を疑ってしまったから。

「一体何してる人なんですか?」
「何と言われるといろいろあるんだけど… この学園で知らないことはないから何でも聞く
 と良いよ。」

 …結局会長の説明を聞いても何者なのか分からない。
 でも、会長がそう言うのだから信頼はして良いんだと思った。



「…もう着いたか。つまらないな。」
 夕鈴の家は近いのであっという間だ。

 …それを寂しいと感じてしまうのは、仮の恋人としてどうなんだろう。
 これが本当の恋人なら、当然なんだろうけれど。


「また明日。」
「はい、また明日。気をつけて帰られてください。」
 手を振って去っていく彼を見送る。…その背中が角に消えてしまうまで。



 ―――あれは演技。

 優しいのも甘いのも、名残惜しそうな顔も全部。
 だから真に受けちゃいけない。分かってる。


 ……だけど。







「―――家の前でいちゃつくなよ。見てる方が恥ずかしいっつーの。」
 すぐ後ろで声がして、がばりとふり返る。
「几鍔! いつからそこに!?」

 見られるのは気恥ずかしい。…いや、見られるのが役目なんだけど。
 でも、他の生徒ならともかく、昔からの夕鈴を知っている相手というのはなかなか微妙な
 もので。

「てゆーか聞かないでよっ」
 顔が熱いのは…ビックリしたからだ。
 絶対に、"いちゃつく"という言葉に反応したからじゃない。…と思いたい。


「お前が鍋貸せって言ったんだろうが。俺だって好きで聞いたわけじゃねーよ。」
「1番大きい奴の取っ手が取れたから仕方ないじゃない。食べさせてやるんだから文句言
 わないでよ。」

 今日は几鍔の家が両親とも夜不在で、そういう時は一緒に食べる。だからついでに鍋を借
 りた。
 たくさん作っておけばおじさんとおばさんも後から食べられるし。

「文句は言ってねぇだろ。いちゃつくなら場所を考えろって言ってんだよ。」
「だから、誰もいちゃついてなんか…!」


「姉さん! 几鍔さんもお帰りなさい!」
 言い争いが続くかと思われたタイミングで玄関から青慎が出てきた。
「とりあえず中に入ってから話をした方が良いと思うよ…」

 まさか中まで声が聞こえていたんだろうか。
 それはさすがにご近所迷惑だと気がついて、夕鈴は青慎にごめんねと謝る。

「几鍔、鍋は台所に置いといて。着替えたらすぐ作るから。」
「へいへい。」
 そうして3人は揃って家の中に入っていった。







 3人が中に入った後、角の向こうに停められていた車が動き出す。
 この辺りには不似合いな高級車は、静かな音でその場から走り去る。


 几鍔とのやりとりを彼に見られていたこと、それを止めさせるために青慎に電話があった
 こと。

 それらを夕鈴が知ることはなかった――――…


















*




















 老師はいつも掃除をしているとやってくるようになった。
 暇なんだろうか。相変わらず役職は不明なままだ。

「あの物置と化していた資料室が…見違えたの。あのメガネですら後回しにすると言って
 おったのに。」
 足の踏み場もなかった部屋は何とか窓まで辿り着けるようになった。
 だから今日は窓を開けて換気もしている。
 けれど、夕鈴からしてみればまだまだこれからだ。
「まだ掃除だけですから。これから資料の整理もしなきゃいけないですし。…だいたいこ
 こ、物が多すぎるんですよ。これじゃどこに何があるか分からないわ。」


「―――ところでお主。」
 老師の声かけは半分無視していた。
 今日はここまでとして、今度からどこから手を付けようかと考えていて頭がいっぱいだっ
 たのだ。
「書類なんかは会長か李順さんに聞かないと分からないし…」
 ブツブツと積み上げられた本やら書類やらを見ながら呟く。
 この掃除バイトの期間は今学期中で、その間に終わらせるにはどうしたら良いのか。
 だいたいの予測を立てて計算してみる。

 そんなわけで、そっちに意識が向いていたから思いきり油断していた。


「あの方とはどこまでいっとるんじゃ?」

 ガタガタッ

 横に積み重なっていた本ごと夕鈴は盛大にこけた。


「何言ってんですかっ どこにもいきません!」
 突然何言い出すんだこの人!?と、夕鈴は真っ赤になりながら否定する。

 期間限定の偽りの恋人との間に何があるというのか。
 …いや、老師は知らないのかもしれないけど。
 事実、夕鈴と彼の間には何もない。演技でも抱きしめられたりとかそのくらいだ。

「何じゃつまらん。」
 それを聞いた老師は多大に不満そうにしていた。
 一体何を期待してるのか。

「あれだけ愛されておいて何もないとはの。」
「ッッ」
 ここまではっきり言う人は今までいなかったから動揺してしまう。
 
「キスの1つくらいはしたんじゃろ?」
「〜〜〜〜っ」

(だから、何もしてないってば!)
 でも、言って良いものか分からなくてそこは声に出せなかった。
 言うのも恥ずかしいけれど。


「このまま捕まえておけば玉の輿じゃの。」
 からかうつもりなのか、老師は変な笑みを浮かべている。
 …けれど、それを聞いた途端に急に頭が冷えた。

「―――そんなつもりはないです。」
 きっぱりと言い放つ。

 私は仮の恋人だけど、そんな風にあの人を見たことはない。

「そんなの、会長を見てるわけじゃないもの。」

 会長が珀家の後継者候補の1人だというのは事実だ。
 でも事実だけれど、それは夕鈴には何の関係もないこと。

 夕鈴が力になりたいと思ったのは、純粋に学園のためにと言ったあの人だからだ。


「――――」
 夕鈴の答えを聞いて、老師は突然黙り込んでしまった。

 何か変なことを言ってしまったのだろうか。
 そんなつもりはなかったのだけど。







「…夕鈴。」
「!?」
 すぐ耳元で声が聞こえて、次の瞬間にはふわりと身体が浮いていた。
 抱き上げられたのだと気がついて視線を落とすと、そこにいたのは今の今まで話題の中心
 だった人。

「か、会長!?」
「あまりに遅いから迎えに来た。」
 どうしてここにと聞く前に答えられ、その答えに夕鈴はびっくりする。
「え? もうそんな時間なんですか?」
 だいぶ日が長くなったから気づかなかった。
 確かに時計を見れば、もう生徒会の仕事は終わっている時間。
 考え込んでいるうちに思ったより時間が経っていたらしい。


「―――張老師。」
 ふと、彼の視線が夕鈴から老師に移る。
「…余計なことは言ってないな?」

 声が幾分低くなったのは気のせいだろうか。
 …空気が冷えたような気がするのも。

「もちろんですとも。」
「…ならば良い。」
 短く答えると、夕鈴を抱き上げたまま彼は老師に背を向けた。

「え、ちょ、このままですか!?」
 今更ながら慌ててみたけれど、彼は全く聞き入れる気がない様子。
 老師はバイバイと手を振ってるし、このまま連れて行かれるのは決定らしい。


「戸締まりはしておくから安心せい。」

(心配してるのはそこじゃない!!)


 ―――けれど、その主張は結局聞き入れてはもらえなかった。





















「ふむ。見込みがありそうな娘じゃの。」

 財産や地位目当てではないらしい。あの方の言う通り、彼女の行動は"善意"だ。
 それに、わざと知らない素振りをしていたが、あの娘は最後まで秘密をばらさなかった。

「逃がすには惜しいの。…けしかけてみるかの。」


 そうして彼は、掃除娘にちょっかいかけることに決めた。




2012.2.1. UP (2012.2.11.修正)



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特にオチはないです。
だいたいどの話もそんな感じの予定です。

修正で、ツッコミ日記の方に上げていた兄貴の部分を追加しました☆



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