狼陛下と夜会(後)




「ねぇ、あれ…」
「まさか…」
 ひそひそと囁き声が聞こえて、視線はこちらに突き刺さる。
 様々な感情が入り交じったそれは自分に向けられたもの。



「…あの、視線が痛いんですけど。」
 学校にいる時とは違う。
 それが彼の隣にいるせいだと思うと緊張した。

 …そして、李順さんに言われた言葉の意味を理解する。
 自分の失敗は、彼にも影響するのだと。


「―――夕鈴。」
 こそっと耳打ちされる。…その声は、優しい小犬の方。
「みんな君に見惚れているんだよ。」
 クスクスと笑い声でも聞こえてきそうなくらい。彼の声は軽くて楽しげだ。
「大丈夫、でも離れないようにね。」
 他の誰にも聞こえないように、それは夕鈴のためだけに向けてくれた言葉だ。
(あ、いつもの会長だ…)
 良かったと、安心したら肩の力が抜けた。










「―――紅珠。」
「お姉様!」
 今日の主役である彼女に挨拶に行くと、紅珠は真っ先に夕鈴の手を取る。
「とっても素敵ですわ!!」
 目はキラキラと輝いていて、それが本心からだと分かったから夕鈴もにこりと笑んだ。
「ありがとう。紅珠はいつも可愛いけれど、今日はもっと可愛いわね。」
「お姉様…」
 …そこでポッと頬を赤らめるのは違う反応だと思うんだけど。
 まぁ、そこはいつも通りなのであまり気にしないでおいた。


「学校でも言ったけど、お誕生日おめでとう。」
「ありがとうございます。」
 夕鈴へにこりと笑って返した後で、彼女は隣の会長の方を見る。
「…来て下さるとは思いませんでした。」
「夕鈴を1人で行かせるわけにはいかないだろう。」
 彼の表情は紅珠を祝おうという様子も感じられない。
「そうですわね。」
 けれど彼女はそれを気にした風でもなく、むしろ当然のように受け止めているようだった。
「…お前の父は大喜びだろうな。」
「どうでしょう? 隣にこんな素敵な方がいるんですもの。」

「――――?」
 2人の会話の意味は夕鈴にはよく分からない。
 それに少しだけ疎外感を感じたものの、2人はすぐに夕鈴に笑顔を向けてくる。
 胸の痛みはそれですぐに霧散されて、弾む会話の楽しさのおかげですぐに忘れていった。






 それからばらくは3人で一緒にいたのだけれど、最初に離れたのは会長。
「…ごめん、ちょっと待ってて。」
 夕鈴にだけ聞こえるように彼は囁いて、すごく品の良さそうなおじさん達の輪の中に入っ
 ていってしまった。

「…誰かしら?」
「珀家と懇意にされている方々ですわ。」
「そうなの。」
 だったら仕方ないかなと思って、それからは紅珠と2人で話していた。


「―――紅珠様。」
 燕尾服をきっちり着こなした執事らしき人が、突然やって来て、紅珠に何事かを耳打ちす
 る。
 ちらりとこちらを見た瞳は何かに迷っているような感じで、それで何を言われたかを夕鈴
 は正しく悟った。

「私のことは気にしないで行ってらっしゃい。」
 紅珠は今日の主役だ。いつまでも夕鈴が独り占めして良いはずがない。
「でも…」
「私は会長をここで待ってるから。」
 紅珠はなおも申し訳なさそうにしていたけれど、大丈夫だと手を振って彼女の背中を押し
 た。




 それを見送って、1人残された夕鈴は壁際に寄ってぽつりと佇む。

 ―――キラキラと輝く世界。さっきまで自分もそこにいたはずだけれど、1人になった途
 端にとても遠く感じた。
 何だか世界の違いを思い知らされる気分だ。

「几鍔の言う通りね…」


『あいつらと俺達は世界が違う。行ったところで恥をかくだけだ。』
 いつか言われた言葉を思い出す。
 だからずっと断ってきた。それは夕鈴も分かっていたから。

(どうして忘れていたのかしら…)

 近づいた気になっていたのは夕鈴だけ。
 だって、どんなに傍にいたって夕鈴は"仮の恋人"。絶対に本物にはなれない。
 たまたま偶然が重なって隣にいられるだけだ。



(―――立場を思い知らせるため? だから一緒に来たの…?)

「いえ…」
 思ってすぐに違うと首を振る。

 …そんなことを、あの優しい人がするはずがないと分かってる。


 けれど、私はあの人や紅珠がいる場所には立てない―――





「――――…」
 感情に蓋をするように会場から目を逸らしたところで、ちょうど近くのテーブルに並んだ
 ジュースが目に入った。
 ピンク色の液体にサクランボが沈んだサイダーのような飲み物。1度視界に入れてしまう
 と何故だか目が離れなくて。

「そういえば、喉が渇いたわ…」
 思った以上に緊張していたらしい。自覚するとさらに渇きが増す。
 我慢できなくて傍にいたウェイターに尋ねてみると「どうぞ」と言われたので1つを受け
 取った。


「あ、これおいしー」
 一口入れて、その甘さと後味の残らなさに驚く。
 そしてそのまま一気に飲み干してしまった。
「……あれ?」
 途端にふわふわした気分になる。
 頭が少しだけぼんやりして、グラスに残ったサクランボが2つに見えた。
「…んー?」



「―――君1人なの?」
 いつの間にか隣に人がいて、その男性は笑顔で夕鈴に話しかけてきた。
 笑顔が爽やかな人だなーと思う。
 でもそれだけ、会長とは違う。―――あの人は戻ってこない。

「…おいていかれたの。」
 呟いて、両手で持ったグラスの縁に唇をあてる。
 拗ねたように尖らせれば、彼は形の良い眉を寄せた。
「酷い奴だね。」
「ひどい、かしら…」
 ちらりと見上げると「そうだよ」と頷かれる。
「こんな可愛い子を1人にするなんて。」
「かわ、いい…」


 あの人は、何か言ってくれたかしら。
 …何も、言ってくれなかった。黙ってた。

『みんな君に見惚れているんだよ。』
 会場に入った時には、いつものあの人がそう言ってくれたけど。


 …じゃあ、"貴方"は?




「――――ねぇ、」
 深く考え込んでいた夕鈴は、男が肩に触れてきたことに気づかなかった。



























 知り合いと軽く話すだけのつもりが、いつの間にか人が増えていた。
 面倒だと思いながらも相手は珀家と懇意の間柄の者達ばかり。そのために黎翔もなかなか
 輪から抜け出せずにいた。

(夕鈴は何をしているんだろう?)
 すぐに意識は彼女へと向かってしまう。
 本当のところ、彼らの話は半分も耳に入っていない。


「――――ッ」
 どうしても気になってしまって視線を向け、その途端息を飲む。

 …そこには親しげに夕鈴に話しかけている男がいた。
 その2人の他には誰もいない。

 氾紅珠はどうしたのかと思ったが、彼女は一応主役。女性の輪の中に入れられていた。

 そして何事か話していた男が夕鈴の肩に触れる。
「ッッ」
 それを見た途端に頭に血が上る。怒りで頭が真っ白になった。
「黎翔君?」
「―――失礼します。」
 自分を取り囲んでいた彼らに一言だけ言って、黎翔はその輪から飛び出した。








「置いて行かれたならさ、そんな奴は放って僕とあっちに」

「―――私の恋人だ。」
 肩に乗る男の手を掴む。

「不用意に触れるな。」
 低い声で言い放ち、睨むと青ざめた男の手が彼女から離れた。


「あ、かいちょー。もーいーんですかぁ?」
 緊張感がまるでない声に思わず力が抜ける。
 当の本人は空のグラスを手ににこにこと笑っていた。
「…ああ、話は(無理矢理)終わらせた。ところで、誰が君を置いて行ったと?」
 眉を寄せつつ聞けば、途端に彼女は表情を曇らせる。
「かいちょーですよ。そっちが はなれるなって いったのに……」
「……」

 何か様子がおかしい。
 顔が赤いし、まずろれつが回っていない。

 可愛いけれど、可愛すぎて危ない これは。
 こんな生き物を放ってはおけない。


「夕鈴… 何か飲んだか?」
「え? さっき、きれーないろのジュースをもらって…」
 横の男を睨むと僕じゃないと首を振られる。
 夕鈴も違うと言って、近くのテーブルを指差した。
「ほら、まだあそこにいっぱいありますよー」

「……」
 夕鈴はジュースだと言ったが、あれは明らかにカクテル。
 グラスの中が空…ということは、見た目や甘さからは分かりにくい あの意外に度数の高
 い飲み物を飲み干したということか。

「…夕鈴、」
「はい?」
 自分の口から出てくるのは溜め息。
 彼女の手からグラスを抜いて近くのウェイターに渡した。


 ―――離れたのは間違いだったか。

 本当は、戻ろうと思えばすぐにでも戻れた。理由なんていくつでも作れる。
 黎翔自身も本当は認めている。…自分から離れたのだと。

 けれど今は、真っ直ぐに見れなくて逃げた自分を悔やんでいだ。
 …これは心臓が持たない。


「―――帰ろう。」
 軽い彼女を抱き上げると、珍しく大人しいまま腕の中に収まる。
「ふふ、らくちん♪」
「……」
 擦り寄られて甘かったのはカクテルだったのか。
 ぐらりと揺れる何かを全力で振り払い、全てを気づかないふりで思考から追い出した。






















 帰りの車内も静かだった。けれど気まずくはない。

 聞こえるのは、彼女の小さな寝息だけ。
 貸した肩がほんのり温かい。それはとても心地良かった。


「…ん、」
 ふと彼女が身動ぎして肩の重みが離れる。
 けれど、起きるのかと思ったら彼女の頭が再び落ちた。

「……ぇ………」
 一瞬何が起きたか理解できなかった。
 彼女の頭は"膝"に落ちて、彼女は再び夢の中。
 肩の熱は足に移って、身体の熱はますます上がった気がした。



「このまま浚っていきたいなぁ…」
 つい零れてしまった本音に自分で苦笑いする。

 ダメだと分かっているけれど。
 君は僕のものじゃないから。

 離れたくないし帰したくもないけど、でも彼女はそれを望まないだろうから。




「…束の間の甘い夢を。」

 君に、―――そして僕に。


 安らかな寝顔に小さく笑む。
 そうして、いつもと少しだけ違う触り心地の髪を撫でた。




2012.2.5. UP (2012.2.11.修正)



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な、長くなってしまいました すみません。
そんで思いっきり遅刻です…orz しかも書き直す時間ないので5日のままです……

途中から会長(陛下)視点に変えました。
夕鈴カクテル飲んじゃってぽややんになっちゃったんで。
理性との戦いです。ファイトー(鬼)



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