母親の影




玉泉山金霞洞――
すっきりとして整っている無駄のない美しさ、そして落ち着いた静かな雰囲気。
まるでそれはこの洞の主そのものを表しているようだ。

その洞の端に一台の黄巾力士が降りてくる。
そしてそれから降りてきたのは、艶やかな黒髪を肩口で切り揃えている一見女性のような顔立ちをした男性。
ここに来る時だけはあの重い宝貝九竜神火罩も持っていない、ここにだけはいつもラフな軽装で彼は訪れている。
それはここがそれだけ安心できる場所だと知っているから・・・



「玉鼎ー、遊びに来たよ〜〜。」
いつもと同じ挨拶をしてひょこっと顔を出す。
いつもなら入ってすぐのテーブルに座って彼はお茶を飲んでいるはずだった。
けれど今日最初に視界に入ってきたのは彼ではなく。


「太乙真人様。」
声を聞いて振り返ったのは青く長い髪の美形の青年。
彼は太乙を見ると満面の笑みで彼を中へ迎え入れる。
「どうぞお入りになって待っていて下さい。師匠はもうそろそろ貴方が来る頃だと言ってお茶を入れてらっしゃいますから。」
「ありがと。―――・・・あれ?」
以前と目線の高さが違うことに気づく。
確か前に並んだ時は同じじゃなかったっけ?
でも今は口元あたり。
「楊ゼンくんさぁ・・・また背伸びた?」
太乙が自分より高い彼の顔を上目づかいで覗き込む。
「え? ・・・そのようですね。」
この人が何故か小さく見えたと思ったら自分が大きくなっていたのか。
「キミ本当に大きくなったよねぇ・・・・・・前はこぉんなに小さかったのに。」
手を伸ばして楊ゼンの身長と同じ高さで手を水平に振った後、今度はしゃがんで自分の目の位置で同じ風に手を振る。
「いつの話ですか、それ・・・」
「あの頃はかわいかったのになぁ・・・」
楊ゼンの呆れた言葉は全く気にしてないようで、太乙はしみじみとした様子で昔を思い出している。


目を閉じて耳を澄ませば、聞こえてくるのは小さな可愛らしい足音。
「私が来ると走って来てさ、頭を撫でてあげると見上げてあどけない笑顔で「こんにちは」って言うんだよねぇ・・・」
私のズボン裾を握ってさぁ・・・と顎に手を置き座ったままで、懐かしそうに太乙は楊ゼンの顔を見た。
「どうせ今はかわいくありませんよ。」
ぷいっと視線を外して言った彼の声は怒っているというよりどこか拗ねた感じ。
太乙はきょとんとして数回まばたきをしていたが、その理由に気がつくと可笑しくなって吹き出した。
「やだなぁ楊ゼンくんたら。別にキミがかわいくないなんて言ってないよ。だって私より背が高い子にかわいいは変だろう? 
・・・それともかわいいって言って欲しいの?」
からかい混じりの言葉。
楊ゼンの顔がカァッと赤くなった。
「太乙さまっ!!」
「あははは、キミは今でも十分かわいいみたいだね。」
立ち上がり笑い過ぎで涙が出たのを拭きながら答える。


「・・・そういえばこういうの覚えてる?」
そう言って今度はくすくす笑う。
「?」
「前に私が来た時にね、いつものように挨拶したらキミってば「たいいつさまってぼくのおかーさまなんですか?」って言ったんだよ。」
顔をあげて真剣に真っ直ぐな瞳で。
今も変わっていないその瞳で私を見て言ったんだよ。
太乙はその紫色の瞳を再び覗き込む。

「覚えてませんよそんなの・・・」
男は「お母さん」になれないと知らないくらい小さい頃の記憶なんて。
しかし楊ゼンはそう思うのも無理ないかもとも思う。
透けるような白い肌に細く長い指、肉付きが良いとはいえない細い体。
強く握ったら壊れてしまいそうなくらい儚い感じをこの人からは受ける。
この人への印象は今も昔も変わらない。
そう、思い出してみれば確かに昔からお父さんというよりお母さんという感じで・・・・・・

(―――って何を考えてるんだ僕は・・・・・・)

妙なことを考えてしまった自分にあきれ、口元を片手で抑え思わずため息をついた。

そんな彼の行動の意味も思考も全く知ることなく太乙は話を続ける。
「突然で驚いてさ、「玉鼎、キミこのコに何吹きこんだのさ!」って叫んだんだよね。」
後で玉鼎に聞いてみれば、楊ゼンの「お母さんって何ですか?」という質問に「お父さんが好きな人だよ」と答えたら
そう解釈してしまったらしい。
その時の彼にとってはお父さん=玉鼎。だから好きな人、つまりお母さんは太乙ということになったようだ。
子供は何でも見てるんだなぁという感心と同時に、
どこまで知っているのだろうという危機感があってしばらく玉鼎と距離を置いたのは言うまでもない。


「・・・何の話をしているんだ?」
奥から現れたのは地面につきそうなくらい長い黒髪を持つ男性。
不思議そうに言いながら彼はコトンとテーブルの上に持ってきたティーセットを置く。
「玉鼎!」
声を聞いた途端に太乙の表情がぱぁっと明るくなる。
そして他の誰にも見せない表情で玉鼎の方を振り向いた。
楊ゼンに見せる笑顔とは少し違う、優しくて甘い・・・彼にしか向けられない笑顔。
それは楊ゼンには気分の良いものではなかったけれど、それを表情に出すほど彼は子供ではない。
少しムッとしただけで、それは誰も気がつかない程度のものだった。
「彼が私を「おかーさま」って言った時の話してたんだよ。」
言って彼は楊ゼンの横をするりと通り過ぎてお茶をもらいに行ってしまった。
座ると玉鼎がカップに紅茶を注ぐ。
「ああアレか・・・」
玉鼎もすぐに思い出した。
太乙にすごい剣幕で青い顔して詰め寄られたヤツか。

「―――ところで楊ゼン、行かなくていいのか?」
自分のカップにも注いだ後、顔をあげて彼に問う。
「ええ、もう出ます。では太乙さま、ごゆっくりどうぞ。」
「えー行っちゃうのかい? もっと昔の話してあげようと思ったのに。」
太乙は心底残念そうだ。
「昔の恥ずかしい話なんて僕はこれ以上ごめんですよ。」
入り口の前で止まって振り返らずに苦笑いして言う。

バサッ

腕にかけて持っていた布を肩にかける。
「哮天犬!」
彼の右腕から現れたのは真っ白な毛並みの大きな犬。
その背に横座りに乗って楊ゼンは風のように去ってしまった。






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