もしもの話
      〜夕鈴のバイトが本当に終了したら〜




[ 2.戻ってきた日常 ]


 朝の支度をしようと起きてきた青慎は、ふと台所からの温かな香りに気がついた。
 朝食の準備をするのは青慎の仕事だから父親のはずはない。
 他に誰か台所に立つ人物がいただろうかと考えて。
 ――― もしやと思った彼は足を速めた。


「おはよう、青慎。朝ご飯できてるわよ。」
 台所に駆け込んだ青慎が見たのは、予想通りの姿だった。
 王宮にいるはずの姉が湯気立つ鍋から顔を上げ、振り返っておはようと言う。
「…姉さん? いつ帰って来たの?」
「今朝よ。あ、父さんももう起きる時間よね。」
「姉さん… どうして?」
 この前の手紙では何も言っていなかった。
 また休暇かと思ったけれど、それにしても突然すぎる。
「バイトの任期が終わったから帰って来たの。退職金ももらえたから借金も返せるわ。」
 元々1ヶ月だったバイト期間はずっと延長され続けていた。
 だからきっとこのまま働き続けるのだろうと思っていたのに。
「今後は2度と父さんに賭け事なんてさせないから。」

 姉さんはいつも通り明るく言う。
 でもどこか無理をしているように見えた。
 だから、李翔さんとのことなんか聞けなかった。














 下町に住む人々は互いにみんな顔見知りだ。
 つまり、何かあればすぐに情報は伝わってしまう。
 夕鈴が買い物にでも出かければ、彼女が帰ってきたことは半日で広まった。
 ―――時に変な尾ひれも付いて。



「本当に戻ってきたのか。」
「げ。几鍔、なんでアンタがこんな所にいるのよ。」
 明玉のところに遊びに行く途中で声をかけられ、嫌な奴に会ったと夕鈴はあからさまに渋
 い顔をする。
 それもいつものことなので、言われた方は特に気にしていないようだった。
「町中のどこにいたっておかしかないだろうが。」
 確かにそれもそうだ。
 でもまあ挨拶のようなものだから謝る気も訂正する気もない。

「お前が帰ってきてるってことは、じゃあやっぱマジだったのか。」
「何が?」
「お前があの男にふられて帰ってきたっての。だから悪い男に騙されんなと言っただろ。」
 案外まじめな顔で言われてしまったからか、理解するのに数秒かかった。
「誰がふられたのよ! バイトの任期が終わっただけよ!!」
 身に覚えのない事実に思わず叫ぶ。
 また勝手に噂のネタにされていたらしい。
「まあ今まで通り嫁き遅れに戻っただけだ。気にすんな。」
「だからふられてないっての!!」

 そもそも付き合ってもないし!

 この分だと夜には青慎にも伝わってるんだろう。
 優しい弟は何も言わずにいてくれるんだろうけれど、余計に誤解だとは言えなくなりそう
 でどうしようかと思いっきり悩んだ。











「元気だしなよー」
 明玉に会いに行ったらやっぱり彼女も噂を知っていたらしくて慰められてしまう。
 それから「今日は何でも奢るわよ」と町中に連れ出された。
「玉の輿に乗れなかったのは残念だったけど、また出会いはあるわよ。」

(だからなんで私がふられてる前提なわけ?)

 任期延長を断ったのは自分の方だ。
 そもそもふられる前に告白だってしていない。
 だって相手は国王陛下だ。どんな奇跡が起きたって叶いそうもない。
 そう思えば噂も否定できないような気もするけれど。

「…まあ良いわ。」
 何を言っても信じてくれそうもないし、いちいち否定するのも疲れた。
「そうだ明玉、なんか良いバイトない?」





『期間の延長はしません。』
 これ以上あの人の傍にいるのがつらかった。
『もう演技を続けることができません。だからこれが最後です。』
 演技だと分かっていても惹かれてしまう。壊れそうなくらい心臓が高鳴る。

 あの人はただ、少し寂しそうな顔で「そう」とだけ言った。
 引き止める言葉はなかった。

 きっとそれが答え。


 だから本当に傷ついてしまう前に、私はあの人の前からいなくなった。






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とりあえず下町。
夕鈴は自覚してる前提。それがバイトを辞めた理由です。

2011.1.2. UP



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