「何用でお呼びですかな、陛下。」 侍女のただならぬ様子を受け、老師はできる限り急いで妃の部屋へやって来た。 寝室には椅子に座って機嫌が悪そうな陛下と、寝台の上で困った顔をしている娘の2人。 その空気がぎこちないのも気のせいではないらしい。 「―――張老師、とにかく彼女を診てくれ。」 それだけ言って彼はそっぽを向く。 何かあったのだろうかと思いながら娘の方を向くと、顔色は悪くなさそうだった。 「? 昨日ほど具合が悪そうには見えんが…」 侍女の狼狽ぶりから容態が悪くなったのかと心配していたのだが。 「あの、すみません…」 おずおずと、らしくない態度で彼女は顔を上げる。 どこか様子がおかしいと思った、そのすぐ後に老師はその理由を知ることになる。 「どうやら私は、記憶喪失というものらしいんですが…」 「は?」 その時老師は自分の目が取れて落ちるか顎が外れるかと思った。 「貴方は張老師とおっしゃるんですか?」 …何を言っているのかと、思わず言いそうになった言葉を何とか飲み込む。 彼女の瞳に嘘など微塵も見えなかったからだ。 「陛下… これはどういう…」 視線は釘付けのままで陛下に問う。 「私が知りたい。だからお前を呼んだ。」 陛下の不機嫌の理由はこれで間違いないようだ。 その気持ちも分からなくはない。 自分でも驚いたのだ。陛下の気持ちは如何ばかりか。 「…はてさて、どうしたものか。」 気を取り直して老師は椅子の上に立つ。 冷静でいられるのは年の功故かもしれない。 「―――まずは状況を把握せねばの。いくつか聞いても良いかの?」 「あ、はい。」 彼女はぴっと姿勢を正す。 そういう真面目さは変わってないらしい。 「とりあえず、嘘でも冗談でもないというのは?」 「さっきも聞かれましたが本当です!」 一応聞いてみると、即座に真面目な顔で切り替えされた。 「目が覚めたらここに寝てて、その前のことはさっぱりです。」 「まあ… お主は元々嘘を付けるような性格はしとらんしの。では家族のことは?」 2つ目の問いには項垂れて首を振る。 「それも分かりません。名前はさっき聞きましたけど… 私がどこの誰で、どうしてここに いるのかも全然分からないんです。というか、ここはどこですか?」 そう尋ねながら彼女は不安げに辺りを見渡す。 これ以上は責め立てられる気になるかもしれないと思い、老師はそこで質問を止めた。 状況も今のでだいたい分かった。 「…隠しても仕方ないの。」 代わりに今度は老師が答えようと、小さく息を吐く。 「―――お主の名は汀夕鈴。ここは白陽国王宮の後宮で、お主は国王陛下唯一の妃じゃ。」 「……、……へ? 妃って、私が?」 たっぷりと間を置いて、彼女は呆けたように聞き返した。 その気持ちを察しつつも、彼女の問いを肯定する意味で老師は大仰に頷く。 「そうじゃ。どんな良家との縁談もすべてはねのけた陛下が自ら選んだ寵妃がお主。」 「うそ…」 「嘘なわけなかろう。」 彼女の呟きを即刻否定する。 そう、嘘は言っていない。世間一般ではそれが真実だ。 「昨晩も周りが止めるのも聞かずにここでお主を看ておられた。」 仕事を終わらせて夜中にまた戻ってきて、李順が何を言ってもここにいると言い張った。 そうして一晩、妃の傍で過ごしたのだ。 「それを疑うのか お主は。」 「い、いえ…」 (…あれ?) 老師の言葉を受けて、夕鈴は内心で首を傾げた。 『…大丈夫?』 目覚めて最初に出会ったのは… そういえば、さっき"陛下"って… じゃあ、さっきから背を向けて不機嫌そうにしているこの人が。 「あの、陛下…?」 夕鈴に呼ばれて彼はふり返る。 その表情はまだ不機嫌そうだったけれど。 「先ほどはすみませんでした。」 寝台に座ったままで夕鈴は深々と頭を下げる。 知らなかったとはいえ、さっきは思いっきり拒んでしまった。 (自分の妃に拒絶されたら普通傷つくわよね…) 申し訳ないなと思った。 彼は付きっきりで看病してくれていたのに。 「…良い。夕鈴のせいではない。」 落ち着いたのか、そう答える彼の表情はさっきよりは幾分柔らかくなっていた。 「今日は大事を取って休むと良い。」 そう言って陛下が立ち上がる。 「私は仕事があるからもう行かねばならないが…」 ちらりと老師を見ると、彼は心得ているとばかりに自信たっぷりに頷いた。 「ご安心なされませ。私がしっかり見ておきましょう。」 「ああ頼む。ではな、夕鈴。」 触れようとした瞬間に、びくりと身体が勝手に震える。 しまった、と思ったけれど、彼は少し寂しそうに微笑っただけだった。 「―――また夕方に。」 そうして今度はできるだけそっと頭を優しく撫でられる。 その触れ方で大切にされていたことが分かって、ほんわりと温かい気持ちになった。 (私、この手を知ってる…) 「…はい。」 頬を赤らめて頷くと彼もホッと笑みを見せてくれた。 次は触れられても大丈夫だと思う。 「老師、少し話がある。」 「はい。」 夕鈴を残して2人は寝室を出た。 「何故隠す?」 老師の説明は概ね真実だが、根本の部分が抜けていた。 夕鈴が"臨時花嫁"という話がなかったのだ。 「真実を伝えても混乱するだけですからの。」 けろりとして老師はそう答えた。 悪びれなくというわけではなく、それは彼女を心配してのもの。 「今あの娘に必要なのはここにいても良い理由。自分が妃だと信じてそのように振る舞え ばバイトにも支障はないでしょう。」 問題はない、確かに。 今回は何か思惑があっての隠し事ではなく、純粋に彼女のためのようだった。 「陛下のお気持ちも分かりますが、今一番不安なのはあの娘ですからの。察してくださる よう…」 老師の言葉はもっともだ。 不安なのは、何も知らない場所に放り出された彼女の方。 『貴方は誰ですか?』 存在を否定された言葉。見知らぬ人を見るような瞳が胸に深く刺さった。 けれど自分がショックを受けている場合ではない。 …彼女を守らなければ。 老師に彼女を託して、黎翔は自分の部屋へと戻ることにした。 「何ですかそれは。」 ことの次第を説明された李順もまた唖然とする。 「夕鈴自身は本物の妃と信じているから李順もそのように接してくれ。」 「はあ…」 「しばらく政務室通いは控えさせた。掃除のバイトも当然休みだ。後宮から出さず、私が 政務の間は老師に見ていてもらうことにする。」 今一番重要なのは彼女の安全の確保だ。 命を狙われる可能性も今の彼女は知らない。 ただでさえ不安に思う場所でそんなことを話すわけにもいかない。 「―――それから、最近不審な動きがなかったか調べてくれ。」 不自然すぎると思った。…昨晩の彼女の発熱も含めて。 あの発熱は毒によるものではないかと。 彼女が普段飲むお茶には解毒作用があり、多少の毒には耐性があるはずだが、それも完璧 ではない。 「…御意。」 李順もすぐに察したらしく、礼をすると調査のためにすぐに部屋を出た。 →次へ --------------------------------------------------------------------- 老師はちゃんと夕鈴を心配してるんですよ。 けっして、これで2人の仲が進展すればと企んでいるわけでは…ないはず。 2011.5.7. UP