勿忘草の花言葉 -3-




 記憶を失くした以外の変調がなかった夕鈴は、数日後には普段通りの生活に戻っていた。
 …とはいえ、部屋から出てはいけないという黎翔の言葉を守り、ほとんどを部屋の中で過
 ごしていたのだが。

 黎翔は、李順と記憶を失くした原因を調べつつ、老師とは毎日夕鈴の様子を報告し合う。
 時が解決してくれるかもしれないと思うこともあった。

 しかし、数日経っても彼女が記憶が戻る気配は全くなかった――――…




「おかえりなさいませ。」
 1日の政務を終わらせて黎翔が夕鈴の部屋を訪れると、彼女は笑顔で出迎える。
 それは彼女が記憶を失くす以前と変わらない光景だ。
 違う点といえばほんの少しだけ彼が訪れる時間が早くなったくらい。
 侍女達もいつものように礼をして下がっていく。


 そして夕鈴に勧められるまま定位置の長椅子に座ると、彼女は茶器の準備を始めた。
 それはここ数日見なかった光景で、黎翔は数回瞬く。
「夕鈴がお茶を淹れてくれるの?」
「はい。いつもそうしていたからと、侍女の方々が用意してくださったんです。さっき練
 習もしましたから味の方も大丈夫ですよ。」
 答える彼女は自信たっぷりで、その可愛さに思わず笑ってしまった。

 ―――妃付の侍女にだけは記憶喪失のことを話している。
 誰よりも夕鈴と接する機会が多い彼女達に隠し通すのは難しいからだ。
 下手に知られて噂が広まるよりは、最初から事情を話して協力してもらう方が手っ取り早
 い。
 彼女達には、夕鈴のフォローと老師だけでは手が回らない後宮内のことを夕鈴に教えるよ
 うに命じていた。


「どうぞ、陛下。」
「ありがとう。」
 差し出されたお茶を受け取ってにこにこと笑う。

 黎翔にとってこの時間が1番至福の時だ。
 それに加えて久しぶりに夕鈴のお茶が飲めることも嬉しい。

「陛下?」
 今度は夕鈴が不思議そうな顔をした。
「ん?」
「なんだか雰囲気が… 違う、ような?」

 そういえば、つい素に戻っていたけれど、他に人がいたからずっと"狼陛下"の部分しか彼
 女には見せていなかったのだと気づく。
 こっちの顔はあの朝以来だ。
 …起きてすぐ、彼女が記憶を失くしていることを知る前まで。
 その時見ていたはずだけれど、あの時は彼女も混乱していたからよく覚えていないだろう
 し。

「…これは君の前でだけ見せる姿だから。」
 器を卓の上に置いて、代わりに夕鈴の手を取る。
「私にだけ、ですか…?」
「うん。そうだよ。」
 確認するように尋ねる彼女に頷いて笑った。

「―――そうなんですね。」

 その時の、嬉しそうな笑顔。
 少し頬を赤らめて、恥ずかしそうに綻ばせる。

 たったそれだけの仕草だったのだが。

「――――…っ」
 それに息を呑んだ黎翔はそのまま言葉を失くしてしまった。



『今あの娘に必要なのはここにいても良い理由。…』
 老師の言葉を不意に思い出す。

 彼女はきっと不安だったんだ。
 知らない場所に放り出されて、自分の居場所を探していた。

 だったら僕が君の居場所になろう。
 君は僕のために"ここ"にいるのだから。


「僕には君が必要だよ。」


 夕鈴―――、僕の可愛い愛しい妃。

 だからずっとここにいて。










 長椅子に座らせて肩を抱き寄せる。
 いつもなら抵抗されるけれど、彼女は素直に頭をもたげて寄りかかってきた。

「――――…っ」
 違う反応にどきりとする。
 けれどそれをおくびにも出さずに、流れる栗髪に触れた。

 こうやっていると本物の夫婦のようだ。
 甘い幻想に捕らわれそうになる。


「―――私って本当にお妃様だったんですか?」
「どうして?」
 見上げてくる彼女の顔はいつもより近い。
「なんだか、ピンとこなくて…」

 それも当たり前かと思う。
 半分騙されたような形で臨時花嫁になって、僕の我が儘で今まで続けている。
 本当なら会うことはなかったはずの彼女。
 彼女が帰る場所は別にあることを僕は知っている。

 …でも今は、君は僕のものだ。

「確かにあまり妃らしくない妃だったけど。僕は君が良いと思ったんだ。」

 僕は君の全てが好きだから。
 身分とか家柄とか、みんなが拘るものなんかつまらない。
 君以外には… 何も要らないんだよ。


「…私は、本当に愛されていたんですね。」
「え?」
 頬を赤らめて彼女がふわりと微笑んだ。

 …そうか。
 バイトだと知らないのなら、僕が彼女を愛して召し上げたことになるんだ。
 彼女を見つけたのは李順じゃない。この僕なんだ。

「夕鈴…」

 雰囲気に呑まれるがまま頬に触れると、彼女は大人しく目を閉じる。
 今ならきっと、何をしても彼女は受け入れてくれるのだろう。

 柔らかそうな唇に誘われて、吸い寄せられるように顔を近づけ、、

 ―――触れる直前に離れ、代わりに額へキスをした。

「陛下?」
 ぱちりと目を開けた彼女が不思議そうな顔をする。
「今日はここまで。残念だけど。」
 これ以上進んだら止まらなくなると分かっていた。
 だから笑って己の熱を誤魔化す。


 何も知らない君に手を出して本物にしても、それはフェアじゃない。
 僕は君の全てを手に入れたいんだ。







 ちりん―――…

 鈴の音が聞こえる。


「…夕鈴?」
 ふと顔を上げて虚空を見つめる彼女を不思議がる。
 彼女はこちらを振り向いて、曖昧な表情で微笑った。
「いえ、何でもありません。…たぶん、空耳です。」


 耳に残る鈴の音は、消えた記憶の欠片か――――





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ちょっといちゃいちゃさせてみました(笑)
記憶がない夕鈴は本当の妃だと思っているのでこんな感じになるんじゃないかと。
でも陛下はまだ、"あること"に気づいてないんですよね〜 ということで、まだ続きます。


2011.5.8. UP



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