勿忘草の花言葉 -7-




「ッッ」
「きゃっ!?」
 ホッとしたのも束の間、夕鈴へ伸ばされた黎翔の手が届くより一瞬早く、闇色が夕鈴を奪
 い去り盾に取る。
 彼の間合いの外まで後退し、夕鈴の喉元に短剣を突きつけた。


「――――彼女を離せ。」
 冷たい声、冷たい瞳。
 空気が一段と冷え、夕鈴ですらぞくりと背筋を悪寒が走る。

「それ以上近づかれますと、お妃様に傷が入りますわ。」
 耳元でそれを聞きながら、夕鈴は自分の身体を拘束している彼女の手が震えていることに
 気づいた。

 当たり前だ。あの目を見て、平静でいられる人はいない。
 それでも精一杯の虚勢を張って彼女は陛下と対峙する。

「…彼女を離せと言っている。」
 陛下の眼光がさらに冷え冷えとその鋭利さを増す。
「嫌ですわ。」
 それでも彼女は首を振った。
「たとえこの場で死ぬとしても、その時はお妃様も一緒に来てもらいます。」


 彼女の意志は変わらない。
 その主のためなら自分の命は惜しくないと本気で言っている。

 こんなの間違っている。
 でもその声は彼女に届かない。

(どうすれば良いの…?)


「―――お前の行動は無意味だ。」
 ふと、息を吐いた陛下が静かな声で言った。
「お前が妃を殺したとして、私はあの男の娘を召し上げることはない。むしろ、妃を殺すよ
 う命じたとして処罰される。」
 さっと彼女の顔色が変わる。
 先程とは比べものにならないほど彼女の手が震えていた。
「これは私が勝手にやったこと! あの方には何の関係もないわ!」
「あろうがなかろうが、お前が妃に手を出せばその男にも罪は及ぶ。お前やあの男が否定
 しても誰も信じはしない。」
 無表情なのに威圧感だけが増す。
 淡々と告げられるそれがとても恐ろしく聞こえた。
「なんですって!?」
 動揺からか、彼女は感情を表に出して叫ぶ。
 それすら本人には自覚がないかのようだったけれど。
「あの男は娘を後宮に入れたかったのだろう? 動機は十分だ。」

「…信じられない。貴方は鬼か何か?」
 呟くように発せられた言葉に、陛下が薄く笑んだ。

「私の通り名を忘れたか? ―――冷酷非情の狼陛下だ。」



「陛下! 菅殿を政務室にお呼びいたしました。」
「っ!」
 入り口に現れた李順が陛下の前で頭を垂れて報告する。
 途端にビクリと彼女の身体が震えた。
 どうやらその名前が彼女の主の名前らしい。
「待たせておけ。―――さて、どうする?」

 再びふり返って彼が告げたそれが最後通告。
 ここで拒めば、彼女の主がどうなるか。
 それが分からない彼女ではない。


「…わっ」
 突然拘束されていた身体が自由になり、夕鈴は思わず前によろける。
 たたらを踏んで何とか踏みとどまった時、目端に短剣を振り上げる彼女が見えた。

「ダメッ!!」
 "彼女自身"に向けられたその手に咄嗟に縋りつく。
 その行動は反射に近かった。

「離しなさい!」
 思いの外力が強い彼女に振り落とされないよう、必死にその腕を掴んで離さない。
 この手を離せば彼女は自ら命を絶つ。そんなのダメ。

「死んではダメ! 生きて、幸せを探して! せっかく救ってもらった命なのよ!」

 優しい人だと彼女は言った。
 その彼が彼女に何を望んだのか夕鈴には分かる。

 だからダメだ。
 絶対に死なせてはいけない。

「恩返しをしたいなら――――…その命を大事にしなさい!!」
 夕鈴の恫喝に、ぴたりと手が止まる。
 力が抜けたのにホッとして、夕鈴は彼女の目を真正面から覗き込んだ。

「貴女はその方の思いを踏みにじるつもり? その方が貴女に望むのは、ただ貴女の幸せだ
 けなのに。」


 妃を殺して欲しいなんてきっと望まなかった。
 彼女の過去を知っていても、その人はそんなこと言わなかった。

 優しいその人が望んだのは、ただ普通の少女として生きて欲しいということ。
 誰もが持つ普通の幸せを、その手にして欲しかっただけなのだ。


「ごめん、なさい…」
 カランと短剣が床に落ちる。
 その上に、ぽたりと透明な雫が落ちた。






「陛下、菅という方はどんな人なんですか?」
 くるりとふり返って陛下を見る。
 その目は不満そうにも見えたが夕鈴は無視した。

「…王宮には珍しく穏やかな気性の男だ。」
 それでも律儀に答えてくれる。
 それに内心でホッとしつつ、さらに質問を重ねた。
「本来なら、暗殺など考える方ではありませんね?」
「そうだな。」
「ならば、この方も許していただけませんか?」
「夕鈴?」
 さすがに陛下も怪訝な顔をする。
 2度も命を狙った相手に何を言っているのかと。

「彼女は思い詰めてしまっただけです。」
「だが…」
「そして、追い詰めたのは私です。」
 きっぱりと告げたそれに彼は反論の言葉を失くす。

 妃がいるから憂いたその人。
 その彼を見て、思い詰めた彼女。
 つまり、彼女の行動は"妃"がいたが故のこと。

「お願いします。彼女に幸せになるチャンスを与えてください。」


 深々と頭を下げる夕鈴の頭上で、大きな溜息と了承の声が聞こえたのは、それから数拍後
 のこと。


















 黎翔は、李順に言付けて彼女を政務室に連れて行かせた。
 さすがにこのまま後宮に留まるのは彼女も気まずいだろうし、黎翔自身としても絶対に嫌
 だった。
 本来なら八つ裂きにでもしてやりたいところだが、夕鈴がそれを許してくれない。
 約束もしてしまったから守らないわけにはいかなかった。



 彼女は何度も夕鈴に謝罪と礼を言いながら李順に連れられて行った。
 兵達にもそちらに付いて行くように命じて、そうしてその場に残ったのは2人だけ。


「ごめん、怖い目に遭わせて…」
 誰もいなくなってから、項垂れて彼女に謝る。

 怖いことからも危険なことからも全部全部遠ざけて。
 何も知らせず、何も知らず、真綿に包むように。
 綺麗で優しい世界だけを君に。

 そんな風に守りたかった。でもできなかった。
 しゅんとして肩を落とす黎翔に夕鈴は笑う。

「いいですよ。ちゃんと迎えに来てくれたから。」

「…え?」
「? どうかしたんですか?」
 顔を上げると、彼女はきょとんとした顔をしていた。

 違う。一瞬期待したけれど、"彼女"はまだ戻ってきていない。

「…何でもない。」

 最初の時と同じ言葉。
 思い出したのかと思ったけれど、そう上手くはいかないらしい。


 "彼女"の欠片を探して彷徨う。

 夕鈴は夕鈴のまま。
 けれど、"彼女"は……





→次へ





---------------------------------------------------------------------


陛下より夕鈴の方が強かった…(笑)
今回陛下何もしてない気がします。いや、脅したりはしてますけどね。
夕鈴が思いの外動きまして。私もビックリです。
さて、刺客はいなくなりましたが、根本的なところが解決していませんね。

1話分伸びましたが次回が最終話です☆

2011.6.4. UP



BACK