不可侵の花 -2-




 その日も半分日課に近い書庫へ立ち寄って、ちゃんと片づいているかを確認していた。

 少しでもみんなが使い易いようにと。
 そんな思いを込めて、本当なら掃除もしたいところなのだけど。



「―――あら、あんなところに…」
 ふと落ちている書簡に気づいて拾おうとしゃがむ。

 その時頭上でガタ、と何かが揺れる音がした。


「お妃様!!」
 次いで、鋭い声が飛ぶ。

「え… ―――!?」
 視界が暗くなったと思って顔を上げると、すでに書棚が目前まで迫っていた。

(逃げられない…ッ!)
 ぎゅっと目を瞑って身体を縮こまらせる。
 身に降りかかる全ての痛みを覚悟した。


 ―――そこへ、別の影が入り込んだことには気づかなかった。



 ドンッ ガラガラガラッ

 崩れる音が書庫内に大きく響く。
 書簡が落ちて転がる音も。


「ッッ」
 瞬間潰れたと思ったけれど、…不思議と痛みはなかった。
 意識も何故かはっきりしている。

「―――…?」
 そっと目を開け顔を上げると、自分に覆い被さる大きな影が一つ。
 優しい目をした人が、ギリギリ触れない距離で夕鈴を見下ろしていた。
「大丈夫ですか?」
 この前助けてもらったときと変わらない声。
 その静かな声に、混乱しかかっていた頭が冷静さを取り戻した。

「…はい、私は……」
 言いかけて、ぽたりと滴り落ちたものに今度は青くなる。
「って、貴方 血が…!」
 額の端が切れたらしく、血が頬を伝って流れ落ちていた。
 それでも彼は優しい笑みを絶やさない。
「この程度大したことではありません。貴女がご無事で良かった。」
「…っ」



「何の音だ!?」
「―――柳、方淵殿。」
 音を聞きつけてやってきた方淵が目前の惨事に目を見張る。
「…本当に何があったんだ?」
「陛下っ」
 すぐ後ろから顔を出した彼もまた、それを見て一瞬口を閉ざした。

 倒れた棚を支える男と、その下で青い顔をしている妃。
 彼女は震える声で「陛下」と呼ぶ。

「…方淵、人を集めろ。」
 そう言って、自身は真っ先に妃の元へ向かった。












 夕鈴は陛下に助け出されて、方淵達が棚を支えている間に彼も外へ出る。
 棚は壁に備え付けてあるものより若干小さいが、それでも3人で支えてようやく持ち上が
 るくらいのものだった。


「夕鈴、もう大丈夫だ。」
 腕の中でがたがたと震える彼女を宥めるように言いながら、視線はもう1人の被害者へと
 向ける。
「…何があった?」
 白布で傷口を押さえていた彼は、陛下に問われてしばし言葉を探した。
 しかし他に言葉は浮かばず、結局そのまま話すことにする。

「―――お妃様の上に棚が倒れようとしていたので、咄嗟に間に入りました。」
「…不審な人物は見たか?」
 彼が言葉を探した理由を察し、問う声が固くなる。
 抱きしめた彼女がびくりと震えた。
「官吏らしき後ろ姿は… すみません、顔は分かりませんでした。」
 方淵のような例を除けば、官吏は皆同じ格好だ。そこから誰かを特定するのは難しい。
 申し訳なさそうに頭を下げると、陛下はいやと首を振る。
「夕鈴の身の安全が最優先だ。よく妃を守ってくれた。」
「いえ…」
 陛下の腕の中にいるお妃様はまだ青い顔。
 何か言おうとした口は何の音も出さず、彼女はただ泣きそうな顔をしていた。

「方淵、彼を医局へ。李順は包囲網を。」
「はっ」
「御意。」


 彼女が布を汚した赤いものを見てそんな顔になったのだと、彼がそれに気づいたのは医局
 に着いてからだった。














 *














 その後夕鈴は後宮に帰されてしまい、陛下が戻ってくるまで待つしかなかった。
 心配する侍女達へは大丈夫だと笑顔で言いおいて、ただ1人考えるのはさっきのこと。


(…あの人は無事だろうか。)
 自分を助けてくれた、優しい瞳の人。

 たくさん血が出ていた。
 しかもあんな大きな棚を背中で受け止めて。

 ―――私を庇って。…私が狙われたせいで。
 妃が狙われることで他の誰かが傷つく。それが一番つらい。



「お妃様。」
 そんな思考を断ち切るように、女官がいつもの口調で陛下の来訪を告げる。

「…!」
 ようやく話が聞けると、彼女への返事も忘れて駆け出した。










「陛下!」
 挨拶もそこそこに飛びついてきた夕鈴に彼は少し驚いた顔をする。
 けれど夕鈴はそれにも構っていられないとさらに詰め寄った。
「あの方の怪我は大丈夫だったんですか!?」
 それを聞くまでは気が気ではない。
 不安で不安で仕方がなかった。

「―――我が身より他人の心配か。相変わらず優しいな、君は。」
 甘く笑んだ狼陛下が夕鈴の頬を指先で撫でる。
「額の傷も見た目ほど深くもないし、それ以外は肩と背中の軽い打ち身だそうだ。」
 大事には至っていない、と。
「良かったぁ…」
 それを聞いてホッとしたら全身から力が抜けた。
 その拍子に流れ落ちた涙を掬い取りながら、陛下は控える侍女達に人払いを命じる。
 それに応じた彼女達はいつものように音もなく下がっていった。






「…夕鈴こそ、大丈夫だった?」
 人の気配が消えたと同時に小犬に戻った陛下が心配そうに聞いてくる。

 ―――本来狙われたのは夕鈴だ。
 心配をかけたのだと気づいて、首をぶんぶんと振った。

「私は全然平気です!」
「そう、良かった…」
 ホッとした顔を見せられて胸が痛む。
 自分の感情で手一杯で、陛下を気遣う余裕がなかった。
「すみません…」
 項垂れた夕鈴に彼はどうして謝るのと困ったような表情になる。
 すっと取られた手を引かれ促されて一緒に長椅子に座り、彼は安心させるように繋いだ手
 をぎゅっと握った。
「とにかく君が無事で良かった。」


 陛下が夕鈴を案じてくれているのは分かる。
 そんな彼の優しさは嬉しいと思う。

 …でも、代わりにあの人が怪我をした。
 それを考えると陛下ほど夕鈴は喜べない。


「ただ、蘇秦が言っていた男は見つからなかったけど…」
「…蘇秦?」
 誰だろう?
 そう思って首を傾げると、あれという顔をされた。
「夕鈴は知らなかったっけ。君を助けた彼の名前だよ。」

 蘇秦、と口の中でその名前を転がす。
 今度会ったらちゃんとお礼を言わなくちゃと思った。




「―――しかしまだ妃の命を狙うような輩がいるとはな。」
 突如響いた冷たい声にびくりとする。
 隣を盗み見ると、狼陛下の静かな怒りが見て取れた。

 それは夕鈴に向けられたものではないと分かっている。
 でも自然と身体が強ばり、繋がれた手を僅かに引いてしまった。

「…絶対1人にはならないでね。」
 それに気づかれたのか、すぐに陛下は小犬に戻ってくれて夕鈴はそっと力を抜く。
「はい。」

 ―――その時彼がどういう感情を持ったのか、夕鈴は知らない。




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切りにくいな… オリキャラの名前は蘇秦さんだそーです。
本当に誰得なんだという話ですよね。
この話を総合すると、皆で片想い!なわけですが。
最終話まで読んだらきっと「…で?」って言われる気がします。


2011.12.15. UP



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