不可侵の花 -3-




 それからしばらく夕鈴は後宮から出ることが許されなかった。
 夕鈴としてはすぐにでも彼にお礼を言いたかったのだが。
 けれどまだ犯人は見つかっておらず、陛下の判断は妃を守るためだったから夕鈴は何も言
 えなかった。



 そして彼に会えたのは、あの事件から一週間も後のこと。




「あの、蘇秦殿。」
「お妃様。」
 さっと控える彼に顔を上げるようにお願いする。
 本当は立ってもらいたかったのだけれど、回廊という場所故に それは固辞されてしまっ
 た。
 何というか、方淵とは別の意味で真面目な人だ。


「先日はありがとうございました。お怪我はもう大丈夫なんですか?」
「はい。元々丈夫にできていますから。」
 痛みもないと明るく言われてホッとする。

 ―――けれど、不意に額の傷が目に入ってしまった。

 あの時、血が流れていた場所だ。
 暗い中でその色だけが鮮やかに記憶に残っている。…実際は暗くて色なんてよく分からな
 かったはずなのに。


「…残って、しまうのですか?」
 夕鈴が伸ばした手は傷に触れるか触れないかの距離で止まる。
 自分のせいで付いた傷。もし残ってしまったら、と。
 泣きそうになって俯いた。


「笑ってください。」
 静かな声音にハッとして顔を上げる。
 そこにあったのは、やっぱり優しい笑みをたたえた彼の人の顔。

「この程度の傷、すぐに薄くなって見えなくなってしまいます。」
 だから笑ってくださいと、彼はもう一度言った。

 躊躇って、彼が待っているのが分かって。
 どうしようかと迷った後に、ぎこちないけれど笑ってみせる。

「そちらの方が私も早く元気になれそうです。」
「まあ。」
 おどけた言葉に今度は自然に笑えた。
 すると彼も嬉しそうにする。



「―――お妃様は笑っている顔が1番ですよ。」


 彼の、優しい言葉が嬉しかった。



















 *


















「ねー あれ放っといて良いの?」
 窓枠に腰掛けて浩大はにやにやと外を眺めている。
 報告が終わったらさっさと戻れと思うが、浩大は基本人の言うことを聞かない。
 …もちろん命令なら聞くが、この程度で言うのも面倒だ。
「何がだ?」
 書類から目を離さず、黎翔はおざなりにそれに答えた。
 まだ夕鈴を襲った犯人が捕まっていない状況で、浩大の戯れ言に付き合ってやる暇などな
 い。

「近すぎるんじゃない?」
 人をからかうような態度はムカつくほど楽しげだ。
 それで何を見ているのか気づいたが、特に表情は変えない。
「―――あの男は命の恩人だ。夕鈴が気を許すのは当然だろう。」
「まーね。それだけなら良いんだけどサ。」
 怪訝に思って外を見たままの浩大を見ると、その横顔には意味ありげな笑みが浮かんでい
 た。

 それはどちらを見ての言葉だったのか。
 ここからは見えないから分からない。



「へーかぁ 気をつけてね。オレ、政務室とか入れないんだからさ。」
 今は人払いをして他に誰もいないからいられるだけだ。
 ここで彼女を守るのは自分の役割。元から譲る気はない。

「―――ああ。」

 カタンと席を立つ黎翔の背中を、浩大は笑いながら見送った。

























「蘇秦殿?」
 奇遇ですねと彼女は微笑む。

「お妃様。」
 蘇秦が応えるとまた嬉しそうに笑われた。


 笑って欲しいと告げてから、お妃様はよく笑うようになった。
 額の傷が薄くなって見えにくくなってからはさらに。
 そうして時折一般的な貴族の女性らしくはない、無邪気な笑顔を見せられる。


 お妃様の笑顔は キラキラと光が降るようだと思う。
 ―――思わず、逸らしたくなるほど。

 曇りないそれを見るのは時に苦しい。
 後ろめたい想いを持つ故に。


 …この想いに気づいたのは最近だ。
 思えば最初に書庫で会った時から惹かれていたのだろうが。

 そして笑顔を見る度に想いが加速していった。

 けれど、この想いは告げられることはない。




「…お散歩ですか?」
 だから、それを作り笑顔で隠した。
「はい。庭園の花が綺麗だと聞いて―――― きゃっ」

 風が突然間を吹き抜け、一瞬互いの視界を奪う。

「――――…っ」
 その次に視界に入ったのは 彼女の長い栗髪を浚う風。
 浚われた葉が踊るように舞い上がり、くるくると空の向こうに飛んでいった。


「わ、すごい…」
 その様を追いかけて景色に魅入る背中。

 …そんな彼女に魅入る自分。
 無意識に"それ"に手を伸ばしかけて―――止める。

「? 何ですか?」
「……いえ。」
 振り向いた彼女から今度は目を逸らした。


 彼女は触れてはいけない "不可侵の花"

 それは、そんなことは、最初から分かっている――――





「…お妃様は、言えない想いがあったらどうしますか?」
 届かなかった手で胸を押さえて、そっと窺うように顔を上げる。

「言えない、想い…」
 そう呟いたお妃様の表情は たった今までの明るさから一転して陰って見えて。
 少しだけ伏せた目と引き結んだ口元が表情を消した。


「……胸に秘めておきます。」
 見たことがないそれに戸惑い言葉を失くしていると彼女の方が先に口を開く。
 その顔を見てしまった途端に、かけようとした言葉を飲み込んだ。

「その想いを口にすることは決してないと思います。」

 愛し愛される者らしくない表情で、彼女は静かな声で告げる。

「そうすれば、変わらずにいられるから。」

 それは独り言のような、自分に言い聞かせているかのような声。
 ……自分を見透かされたような気になった。

「変わらなければ、"私"はここにいられるから―――」


「…お妃様?」
 蘇秦の言葉で弾かれたように彼女の表情に色が戻る。
「っ 何でもありません。すみません、何か今変なことを口走ってしまったみたいで。」
 慌てて謝るお妃様はいつもの顔。
 その変容は、さっきのあれは夢なのかと思ってしまったほど。

 自分の心の奥底が見せた幻なのかと…







「―――夕鈴」
「陛下ッ」
 いつの間にか降りてこられていた陛下が名を呼ばれ、お妃様は離れてそちらへと足早に駆
 けていく。

 いともあっさり離れていく華奢な背中を、自分は見送るしかできなかった。
 手は伸ばせない。…伸ばしても掴めない。



「こんなものを付けて… 何をしていたんだ?」
 くすっと甘く笑って、陛下は彼女の髪に付いていた葉を摘み取る。
 …蘇秦も気づいていたそれに。

 ―――自分が躊躇ったものに、あの方はあっさり触れる。
 それは、あの方は触れることを許されているからだ。

 彼女は王の花、不可侵の花。
 触れることが許されるのは、王 ただ1人。


「こ、これは、さっきの風で葉っぱが飛んできて…」
「そして君はこのような物にも愛されるのか。」
 くるくると弄んだその葉に愛おしげにキスを落とされる。
 それを見たお妃様の顔が真っ赤に染まった。

 仲睦まじい国王陛下とお妃様。
 あの方は陛下のもので、陛下が愛されているのはあの方のみ。
 その事実に胸の奥が鈍く痛む。



 逸らしたくても逸らせないその光景に動けずにいると、不意に陛下と目が合った。

 政務室で周りを恫喝する時のような射抜くような視線ではない。
 しかし、鋭い紅色は警戒を滲ませているようにも見える。


(気づかれているとは思わないが…)


 蘇秦は深く礼をしてその場を去った。




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李順、方淵と続いて浩大まで顔を出している…あれ?
陛下と蘇秦は対比させてます。
オリキャラの片想いを書きたかったわけではないのですが…
第三者を間に挟んで見る、陛下と夕鈴のすれ違いっぷりというか。


2011.12.16. UP



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