不可侵の花 -5-




 それからまた日々は過ぎゆき―――、

 ある日、夕鈴は沈んだ顔の彼に会う。



「どうされたんですか?」
 いつも優しく笑っている人が、今日は青い顔で俯いている。
 何かあったんだろうと思ってすぐに人払いを頼んだ。
「ですが、」
 躊躇う侍女達に、彼は大丈夫だと言って。
 再度お願いすると彼女達は頭を下げて下がっていった。


「蘇秦殿、何かあったんですか?」
 彼女達がいなくなったのを確認してから彼の方に向き直る。
「……馬鹿な一族が馬鹿なことを考えたのです。」
「…?」
 何のことを言っているのか夕鈴には分からない。
 詳しく聞こうと一歩近づく。

「―――お妃様。」
 顔を上げた彼の顔はやっぱり青かった。
 何が彼をそんな風に追いつめたのだろうか。
「少しだけお時間を…」
「…っ!」
 彼の姿が視界から消えて、首の後に痛みを感じる。
 けれどそれ以上は何も考えることもできず、世界は暗転した。















 侍女に話を聞いて浩大が駆けつけるが、そこにはもう誰もいなかった。
 そうして、その場に落ちていた見覚えのある花飾りを拾う。
「しまった… 油断した…!」
 すぐに身を翻して浩大は陛下の元へ急ぐ。
 手遅れにならないことを祈って。











「へーか!」
 声と一緒に窓から飛んできたものを反射的に受け止める。
 手を開くとそこにあったのは夕鈴の髪飾り。

「ごめん、間に合わなかった!」
 窓にひらりと飛び乗った浩大が、いつになく焦った様子を見せている。
 それで黎翔は全てを察した。
「…誰だ?」
 声は一段と冷える。
 命が惜しくないその不届き者は、どこのどいつだ と。
「アイツ! お妃ちゃんの側にいた―――」
「……なに?」
 思っても見なかった犯人の正体に黎翔は目を見張る。


 "蘇家"に動きがあることは知っていた。
 だから今、そのことを李順と話していたのだ。

 だがあの男は違うと、想いが向く先を知っていたから、そう思っていたのに。
 所詮あの男も家に縛られた者だったか。

 ―――いや。
 そこで一つの疑問に思い至る。

 秘めた想いを向ける相手を目の前にして、あの男は何を思う? そして、何をする?

 あの男は厄介だと、景絽望が零していた。
 あれは忠告ではなく警告だった。その男に夕鈴は攫われた。



「李順、お前はこれを持って蘇家へ行け。」
 傍らに立つ側近に持っていた書状を無造作に投げて寄越す。
 そして自分は立ち上がり剣を手に取った。

「陛下はどちらへ?」
 大きな溜息と共に一応の疑問を投げかけられる。
 相手も自分も愚問だと分かっている問いだ。

 手に馴染んだ剣を持ち直し、狼陛下は鋭い瞳で前を射抜く。
「無論、妃のところだ。」





































(薄暗い… ここはどこだろう……?)

 ゆっくりと目を開けて、ぼやけた視界が定まるのを待つ。
 手に触れるのは固い床の感触。それから背中に当たるのは壁か。
 それに沿って身を起こすと、髪に挿していた花飾りがぽとりと落ちた。
「―――…」
 それをなんとはなしに眺めて、夕鈴はゆっくりと顔を上げる。

 闇に慣れた目に映るのは、暗い表情で佇む見知った人だ。
 その手には身体に見合った大振りの剣。抜き身の刃が闇の中で光を放つ。

 文官より武官が似合うと思った。
 それを裏付けるかのように、彼の手にそれは馴染んで見えた。


「…どうしてですか?」
 静かに問う。不思議と裏切られたとかそういう気にはならなかった。
 だって、私に向けられたのは迷い子のような瞳だったから。

 彼は苦しんでいる。
 それが何かは、まだ分からないけれど。

「……命じられたのです。貴女の命を奪うように。」
 馬鹿な一族、彼が言ったのは自身の家のことか。
 それに逆らえず、彼は私を攫ったのか。

 カランと乾いた音が響く。
 彼が手にしていたはずの剣が、彼の足元に転がっていた。

「ですが… 私は……」
 手のひらで顔を覆い、彼は苦悩を口にする。
 何が彼をそんなに苦しめているのだろう。


「…私は、許されない想いを抱きました。決して手の届かない人を愛しました。」
「どうしてそれを私に?」

 彼の瞳が夕鈴へと向けられる。
 哀しみに暮れた、泣きそうにも見えるそんな顔が真っ直ぐに夕鈴を見た。

「愛してはいけない――― 貴女を、私は…」
「わた、し…?」
 信じられなくて呆然と返す。


 いつ会っても変わらない優しさで微笑んでくれた。
 彼がそんな風に見ていたことなんてなかった。

 こんな表情で見つめられるのは、今が初めて、なのに。


「……命じられた任務と貴女の笑顔の狭間で悩み続けました。」
 この人の苦しみは、私のせい?

 夕鈴の前に跪き、彼は袖の端に口づけを落とす。
 それは臣下の、妃に対する敬愛。

「愚かな私の一族は陛下が罰して下さるでしょう。―――そして、私もまた、本懐を遂げ
 る。」

 "あの時"触れなかった手が伸びてきて夕鈴の手首を掴んだ。
 そして助けてくれた"あの時"より近い距離で彼が夕鈴を見下ろしてくる。

 先程のあれが敬愛なら、これは何?

「ダメ…っ 止め…!」
 けれど、力強いそれに夕鈴が抗う術はない。


 彼を苦しめているのは私。

 では、救うのは誰?







 その時、バンッと扉が壊れる勢いで開いた。
 目の前に光が射し込む。

「夕鈴!!」

 夕鈴が危機に陥った時、いつも助けてくれるのは彼。
 でも今は、これは救いになるのか。

「陛下っ!」

 それでも呼ぶことは止められない。
 …私が、心から求める人。


「ゆ――――」
 目の前の状況を目にした彼の顔色が変わる。
 彼女の自由を奪い、押しかかる男の姿。

「……我が妃に触れた、その覚悟はあろうな。」

 冷えた声が響き、鞘が床に落ちる。
 磨き抜かれた刀身の輝きと同じく、彼の瞳もまた 研ぎ澄まされた刃のように光って見え
 た。

 怒りに燃える紅い瞳。
 身が震えるほど恐ろしく、しかし魅入るほど美しい獣の彩。


 夕鈴はその色に魅入って言葉を失う。
 怖くて恐ろしくて、でも目が離せない。

 愛した人。…許されないのに、愛してしまった人。
 言えない想いが向く先。―――麗しき獣の瞳を持つ孤高の王。


「…っ」
 ふり返った蘇秦が足元の剣を掴み、それを陛下へと向ける。
 手首の熱が離れ、大きな体躯が消えて視界が広がった。




 あまり広くはない室内で刃と刃が重なりあう硬質な音が響く。
 2、3度切り結び、蘇秦は一度後ろに引いた。
 陛下はそれを追わずにその場で構え直す。

「お前の目的は何だ?」
「―――…お妃様のお命です。」
 静かな問いに静かに返る声。
 それはさっき夕鈴に語った苦悩とは全く違うものだった。


 違う。

 どうしてそんなことを言うの?

 違うのに。
 貴方は、迷っていたのに。


「何故お前が夕鈴を狙う? 家に逆らうことがそんなに怖いのか?」
 再度問う陛下の表情は分かるけれど、彼は背中しか見えないから分からない。
 彼がどんな気持ちでそんなことを言うのか。

「―――遂げられない想いがあるのなら、共に果てたいと。そう願うのはおかしいことで
 すか?」
「っ!?」
「家のことなどどうでも良いのです。辿り着く先が同じなら、互いに文句はないのですか
 ら。」


 違うの、陛下。
 彼は違うの。


 ダメ、止めて。
 それ以上言わないで。


「…なるほど。確かに厄介な男だな。」

 陛下は何を知っているのだろう。
 私は何を知らないのだろう。

「そんなに悠長に構えていて良いのですか? …私の方がお妃様に近い。」
 陛下の眉がぴくりと動く。
 確かに彼が少し下がって一振りすれば夕鈴の命は絶たれる。

 でも、彼がそうしないのを夕鈴は知っている。
 それだけは確かだと夕鈴は確信していた。

 だから分からない。
 何故彼が陛下に思いと全く違うことを言うのか。
 彼が何を望んでいるのか。…彼の救いがどこにあるのか。


「貴方に刃を向けた蘇家は終わりです。」
 …いつものように妃を殺そうとしただけじゃないの?
 分かること分からないこと、何が真実なのかも分からなくて混乱する。

「もう全員捕らえられたのでしょう? ――――おそらく残るは私だけ。」
 彼は大きな剣を持ちかえて、再び陛下へと切りかかる。


 狼陛下に刃を向けること、それが何を意味するのか。
 彼がそれを知らないはずがない。

(まさか―――…!)
 不意に気づく、彼の望み。


「待っ…!」
 けれど夕鈴の声も手も届かない。


 目の前で赤が散る。
 大きな身体を貫く銀の刀身が見えた。



「――――…」
 後ろへと傾いた彼は夕鈴の腕の中に落ちてくる。
「あ…」
 手を伸ばして受け止めて、立ち上がりかけた夕鈴は再び床へ彼と共に落ちた。


「貴女を、お返…しま……」

 どうして、貴方はそんなに穏やかな顔をするの。
 これが貴方の望み? 遂げたかった本懐?

「あ… ゃ……」

 分かったのに止められなかった。

 涙が溢れ出る。
 広がる赤に両手が濡れた。

「どうか、笑…を、忘れ、な……」

 腕は最後まで上がることなく、夕鈴に触れる前に落ちる。
 命が消える瞬間を、目の前で見てしまった。

「ッッ」


「夕鈴! 無事か!?」
 穏やかな顔に触れようとして、その前に彼から引き離され、夕鈴の身は抱き上げられる。

 いつもの陛下の腕の中。それはいつもならホッとするはずの場所。
 けれど、今は。

「私は… でも、あの人が……」
「―――彼は、君を殺そうとした。」

 貴方は、彼の言葉を信じたの?


「違…」
 赤い手を握りしめ、涙が溢れるそこに押し当てる。
「…違う…」
 首を振ると赤混じりの滴が散った。
「違うの、あの人は…」



 彼は、私。
 同じ想いを抱いた愚かな罪人。

 彼に私を殺す気はなかった。
 彼が望んだのは、…それを知るのは夕鈴だけ。

 だけど私は涙を流すしかできない。


 もう何もかもが遅い。私は何もできなかったから。




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長いですが、どうしても切れなかったので。その分最終話が短いです。(…)
この場面の夕鈴と蘇秦さんの会話から話が広がっていきました。
だから最初から彼の死は決まっていたのですが。
彼の死から夕鈴が何を思ったかまでが今この話で書きたい部分です。
なので、あと1話、お付き合いくださいませ。最後は陛下と夕鈴のみです。


2011.12.18. UP



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