鈴蘭 -1-




 ―――そこへ来たのは1年前。
 下町の一角にある色街の、その辺りでは1番大きな妓楼。

 親の借金の肩代わりに娘が売られる。それは珍しいことじゃない。

 夕鈴は自分で選んでそこへ来た。泣いたりもしなかった。
 そして、この選択に後悔はしていない。
 覚悟は… まだちょっと、足りないかもしれないけれど。


 犠牲だなんて思わなかった。
 私は、私の守りたいもののために、ここに来たんだから。









「夕鈴」
 ちょうど今から向かおうとした部屋の主に呼び止められて立ち止まる。
「蘭姉さん。何?」
 振り返ると、衣装を着崩し鎖骨を露わにさせた美女が気だるげにそこに立っていた。

 蘭とは夕鈴のみに許された愛称―――名は"紫蘭"。
 この金香楼一の妓女だ。

 その艶やかな美しさは昼間でさえも夜の色香を隠せない程。
 煙が立たない空のキセルを手に、白く細い指先で下ろした黒髪を無造作にかきあげる。
 …ただ、その表情はいつもの悠然とした笑みではなく、少し痛ましげな目を夕鈴に向けて
 いた。


「―――アンタの水揚げの日が決まった。」
 朝から彼女がいなかったのはその話のためだったらしい。
 そして告げられたのはその一言。

 その言葉が耳に届き、夕鈴が息を詰めたのは一瞬。
 すぐに表情を消して一つだけ息を吐く。
「……そう、ですか。」
「へぇ、意外に大人しいね。」
 てっきり暴れるかなんかするかと思ったと。
 意外な反応を示した夕鈴に、紫蘭は僅かに目を見張る。
「覚悟していたことですから。私もいつかは、って… だから」
 理解していると、そんな風に言いながらも頭はだんだん下がっていく。

「らしくないこと言ってんじゃないよ。」
 突然、長い爪をした指先でおでこを弾かれた。
「イタッ」
 ぱっと顔を上げて押さえる。
 爪が当たってちょっと痛かった。
「アンタはそんなに物分かりが良い子だったかい?」
「う…」
 鋭い指摘に夕鈴は言葉に詰まる。

 普段の夕鈴なら、そんなこと言わなかっただろう。
 紫蘭は夕鈴のそんなところが気に入っていた。

「アンタはここに来た時から他の娘達とは違ってた。そして染まることなく変わらないで
 いてくれた。」
 ふと見せたその顔は、男に見せる艶のあるものではなく、姉としての優しげな瞳の微笑み。
 思わず泣きそうになるのを堪える。
「それは… 蘭姉さんやみんなが守ってくれたから。私が今まで客を取らなくて良かったの
 も、蘭姉さんがいてくれたからだもの。」

 自分はなんて運が良くて、恵まれて守られた存在なのか。
 他の妓女達を見ていていつもそう思う。
 皆、夕鈴には優しくて甘い。時折心苦しくなるほどに。

 ―――それが自身の性格のためであると夕鈴本人は気づいていないが。


「―――そう、アンタはこの私が自ら手ほどきして育てた。紫蘭様の秘蔵っ子だ。」
 雪のように白い手が、夕鈴の顎をとらえて上向かせる。

 一目会ったその時に、「気に入った」と言って紫蘭は夕鈴を自分付きに指名した。
 紫蘭の立場はこの金香楼でも特別で、それには他の誰も… 楼主さえも異論は唱えられな
 かった。
 そして教育という名目上で常に傍に置き、1年もの間守られ続けたのだ。
 もちろん妓女としての教育はきちんと受けた。
 今は紫蘭と同じ部屋に入り、得意の歌を紫蘭の客に披露している。

 …今までは、紫蘭の客相手だけで良かった。
 しかし水揚げが済めば、夕鈴は自分の客を取らなければならない。


「…その娘の水揚げとなりゃ派手になるよ。積まれる金も破格だろうね。」
 自分自身にそれほどの価値があるとは思えない。
 だけど、紫蘭の妹分としての価値ならそれも有り得ると思った。
「待遇も破格だ。…最初の客はアンタが選びな。」
「えっ?」
 紫蘭が告げたそれに我が耳を疑った。

 私が、最初の相手を選べる?

「―――その中に几鍔がいる。もし、まだ覚悟が足りないなら奴を選びな。アイツなら上
 手くやってくれる。」
 彼女は最後まで自分を守ろうとしてくれている。
 私は何も返せていないのに。
「蘭姉さん…」

「私がしてあげられるのはここまでさ。」
「ありがとうございます…っ」
 抱きつくと頭を優しく撫でられる。

 本当の姉のように思う人。
 私はこの人に何を返してあげられるだろう。

「…すまないね。守ってやれなかった。」
 心からの言葉に、夕鈴は泣く代わりに腕に力を込めた。
「十分です。蘭姉さん、本当にありがとう… 大好き。」

 私は、何ができるだろう。

 ずっとそればかりを考えていた。




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中国の妓楼というより日本の遊郭ってイメージで書いてます。
個人的に遊郭モノ大好きなので…
世界観は狼陛下のままなんですけどね。(場所は白陽国だし狼陛下もいます)

基本的に夕鈴は夕鈴のままです。
ただ、そっち系に関する認識とかが若干違うので違和感あるかもしれません。
それでもOKって方のみ続きは読まれて下さい。


2012.4.15. UP



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