鈴蘭 -10-




「―――鈴蘭。」
「はい、何でしょう?」
 あの人ではない人に、外用の微笑みを向ける。
 嬉しそうに返してくれるその人に、罪悪感を覚えるほどに心がこもらない微笑みを。

 今夜もあの人ではないことに安堵と落胆を覚える。
 会えない寂しさと引き替えに、心乱されることもない。

「今夜は私を選んでくれてありがとう。」
 …本当は選んだのは違う人だけれど。そこは言えずに笑って誤魔化した。


 "鈴蘭"の客になるのは難しい。
 まず、"金香楼の蘭"に夢を見させてもらいたい者は多く、客が付いてない彼女達に会える
 確率が低い。
 一晩に1人しか相手にしないのもそれに拍車をかけていた。
 さらに金は他の妓女達の倍額。
 そしてたとえ金を積んでも目にかなわなければ選ばれない。


 しかしそれは逆に言えば、選ばれれば今夜一晩彼女を独占できる。
 誰にも邪魔されずに長い夢が見られる。そして選ばれた者という自尊心。
 男達が舞い上がるのは当然のことだった。



「鈴蘭。」
 もう一度名を呼ばれて腰を引き寄せられる。
 途端にぞわりと背筋に悪寒を感じてわずかに身を引いてしまった。
「どうした?」
「いえ、何でもありませんわ。」
 不思議そうに覗き込んでこられたので今度もまた笑顔で誤魔化す。
 不意打ちだったからびっくりしただけ。心にそう言い聞かせて。

『―――あの人ではないから。』
 頭の隅でもう一つの心の声が聞こえた。
(…違う、違うわ。)
 それに反論する。

 そんなことはあってはならない。
 私は妓女、―――誰か1人を想えない。


「一曲歌ってもらえないだろうか。」
 すぐ傍で囁かれたお願いにハッと意識が引き戻された。
「はい。貴方様のお望みのままに。」
 即座に、今まで違う誰かのことを考えていたなんて思わせないくらいの笑顔で応える。
 もちろん彼は疑うことなく、嬉しそうな顔で返された。

 歌を請われるのは珍しいことではない。
 たいていの客はそれを目的にやって来るから。

「では、楽士を…」
 人を呼ぼうと鈴を手に持とうとして止められた。
「君の声だけでいい。」

 ―――あの人と同じ言葉。
 こんな時にも思い出す自分を自嘲する。
 今は目の前の客の"恋人"であるべきなのに。

「朝 外で歌っていたのを聞いたことがある。…とても美しい声だった。」

 年も背格好も似ているのに、目の前の男と彼は重ならない。
 この腕に抱かれている自分に違和感を感じるほど。

(ダメ、今は忘れなきゃ…)
 浮かぶ影を振り払う。

 今の私はこの人の"恋人"。
 一夜限りの夢を見せるのが"私"の仕事。


「どんな歌に致しましょうか?」
「…甘い歌が良い。」
 請われる歌もたいてい同じ。
 甘い歌、恋の歌。夢をさらに甘くするためのもの。

 そのままでいるのは本能が拒否して、さりげなく離れて長椅子から立ち上がる。
 歌うためだと思ったらしい彼はすんなりと腕を解いてくれた。

 甘い歌、恋い慕う歌。
 昔からたくさんあるその歌の中から一つを選ぶ。
 相手に想いを込めることができなかったから、歌に対して気持ちを込めた。
 歌に罪はない。罪は、想いを偽る私にある。




 愛してる、欲しいのはその一言
 貴方からのその言葉

 愛してる、他は何も要らないわ
 その言葉だけで良い





「ああ、この声だ。どれだけ待ち望んだか…」
 自分の前で望むままに披露される歌声に酔いしれる。


 彼女を垣間見たのはもうずいぶん前だ。
 朝方 他の妓女のところから帰るときに、その歌声を偶然聞いてしまった。
 誰に聞かせるわけでもなく、ただ気晴らしに歌っていたのだろう。
 ちらりと盗み見た横顔はとても楽しそうで、その笑顔が眩しく見えて。

 ―――それから彼女のことが忘れられなくなった。

 それが"鈴蘭"だと知り、どうしても会いたくて。
 通いつめて頼み込んでようやく今日という時間を手に入れた。


「私を恋い慕う歌…私のための、歌……」
 愛してると鈴の声が紡ぐ。
 貴方だけだと澄んだ瞳が自分を見つめる。

 今夜彼女は自分のものだ。
 ―――だったら、何をしても構わないのだろう?


「!?」
 衝動に突き動かされるがまま、歌う彼女の腕を掴んで長椅子に押し倒す。
 思った以上に軽い身体は、簡単に自分の下に収まった。
「何を…! やっ」
 突然のことに混乱した彼女がそれに抗おうと暴れる。
 けれど、細い両手首を片手でまとめ上げ、頭上に縫い止めれば難なく押さえ込めた。
「離してください! ッ離して!!」


 愛してると歌った鮮やかな紅を引いた艶やかな唇も、
 自分だけを映す潤んだ榛色の瞳も、
 衣からこぼれ出る白い肌も、そこから立ち上る甘い香りも、

 ―――全てが男の欲をかき立てる。


「奥の許可などなくとも、ここでも十分楽しめる。」
「―――――ッ」

 大きく見開かれた彼女の瞳には、やはり自分だけしか映っていない。

 恋い焦がれ望み続けた女が今自分の手の中にある。
 今はただ、優越感しか感じなかった。




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どうしても李翔さんと比べてしまう乙女心。
…なんて悠長に言っている場合ではなく。
夕鈴、貞操の危機…ってもうそれは李翔さんが奪ってるか。
こういう場合はなんて言うのかしら?

次回は、李翔さんから始まります。


2012.4.19. UP



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