鈴蘭 -12-




「――――――ッ」
 強く目を瞑っていたから、すぐに状況を理解できなかった。


 何かが強く打ち付けられる音、卓上から何かが落ちて割れる音。
 それと同時に上にあった重みが消えた。



「…?」
 急に解放されたことを不思議に思い、鈍ったままの頭で視線を巡らせる。
 自分を組み敷いていた男がどこにもいない。
 …その代わりに、そこにいたのは

「り、しょう…さま…?」

 夕鈴を見下ろす彼の顔は蒼白だった。
 その表情は驚愕に染まり、目は見開かれ凝視されている。
 ただ何故そんな顔をされるのか分からない。―――そして、どうしてここにいるのかも。

 目が合うと同時に逸らされ、彼はくるりと背を向けた。







 
 ―――有り得ない事態じゃなかった。
 妓楼には妓楼なりの厳しい掟があるが、中には守らない者もいる。
 その対象が、今回は彼女だったというだけ。

 …しかし、"だけ"では自分の感情が許さない。
 よりによって彼女を、自分にとって無二の存在を、この男は傷つけたのだ。


「ぐ…ッ!」
 衝立の上に倒れ気を失った男の腹を蹴り上げて起こす。
 そこで男が吐こうが内蔵がどうなろうが知ったことではない。
 無論、その程度では怒りは収まらなかった。
 蹲る男の首筋に抜き身の刃を突きつける。
「ヒッ」
「…お前は殺すだけでは足りない。」

 幾筋も流れた涙と晒された肢体を目の前にして、思考が焼き切れ視界は赤く染まった。
 彼女を傷つけた罪は死よりも重い。

「まずは、四肢を切り刻ん」
「―――お待ちくださいませ。」
 李翔の言葉を遮って、静かな声が割り入った。


「……紫蘭。何故止める?」
 不満げに睨むがその程度では彼女は動じない。
 屈強な男2人を従えた夜の華は"裏"の顔をしていた。
「これはこちらの領域、この男への処遇は私達が決めます。それは変えられませんわ。
 ―――たとえ、貴方様が"誰"であっても。」
「――――――…」
 漆黒の瞳の奥に自分と同じ感情があることに気づき、仕方ないと李翔は手を引く。
 彼女が耐えているのに自分だけが爆発させるわけにもいかない。

「連れて行きな。」
「「へい!」」
 彼女が命じると、男達は罪人を引きずるようにようにして連れていった。









「李翔様。」
 紫蘭は彼らと一緒には出て行かず、消化不良で突っ立っている李翔の横へ並ぶ。
「貴方様が相手をするのはあっち。」
 そう言って紫蘭は彼女の方を指さした。
 自分を見上げてくるその表情は、夜の大華でもなく裏の"紫蘭"でもなく、ただ1人の妹を
 思う姉。

「―――あの子の心を守ってやってください。」
 それだけ残して彼女もいなくなった。






 拘束は紫蘭によって解かれていたが、彼女は我が身をかき抱いて俯いてじっとしていた。
 袖から覗く手首には赤い痕。彼女が必死で抵抗していたことが分かる。

 …怖かっただろうと思う。
 紫蘭には言われたが、自分に守れるだろうか。


「…夕鈴」
 できるだけ刺激しないように小さく囁くように呼ぶ。
 それでも彼女の肩は大きく揺れて、ぎゅっとその身を堅くした。


「夕鈴」
 少しだけ離れて彼女の隣に座る。
 そうして彼女が嫌がったらすぐに離れようと、少しずつ近づいていった。

 時間をかけて彼女のすぐ傍まで来たところで、彼女がようやく顔を上げる。
 ぽろぽろと涙を零すその姿に、思わず抱き寄せそうになった。
 けれど寸ででダメだと自分を押し留める。

「わ、私…っ」
 近づいたのは彼女の方。
 泣きながら、ぎゅうと李翔の腕を掴んで見上げてきた。

「私 覚悟、してたはずなのに……!」
 ごめんなさいと涙を流す。
 痛々しいほどに悲痛な表情で。
「分かってなかった! 私、こんなんじゃダメなの …っ」
「っっ」
 それ以上言わせたくはなくて、早口でまくし立てる口をキスで塞いだ。

 言葉を飲み込み呼吸を奪う。
 彼女の身体から力が抜けるまで、これ以上何も言わせないように。


 違っていた。彼女は怖くて震えていたんじゃない。
 彼女は、自分を責めていた。
 その真面目さ故に、あの男の罪を被ろうとしていたのだ。

 …そんな必要はないのに。



「―――分からなくて良い。君は、知らなくて良い。」

 華奢な肩をかき抱く。
 全てのものから守るように、全てのものから彼女を隠すように。

「違う。これは違うんだ、夕鈴。」

 覚悟なんて要らない。
 夕鈴は何一つ悪くない。

 今夜のことなど忘れてしまって良いのだ。
 罪を犯したのはあの男なのだから。




「りしょうさま…」
 背中にすがりついてくる手は微かに震えている。
 そうして静かに涙を流し続ける彼女を、一層強く抱きしめた。


 何もかもを1人で抱え込んでしまうこの小さな身体を、このままずっと腕の中に閉じこめ
 てしまえたら。
 今までよりも強く、そう思った。

















++
 細い蝋燭の明かりだけが灯る地下牢で、男は縛り上げられ転がされていた。
 それを見下ろす紫蘭の足下では楼主が背を丸めて縮こまっている。
 その彼にいつも妓女達に見せる威厳はなく、ただ震えて紫蘭と同じ方を見ていた。

「お館サマ? これはどういうことだい?」
 刺すような冷たい視線は男に向けたまま、氷のような声を楼主へと向ける。
「私はこの男に奥の許可は与えていないはず。」

 元々鈴蘭の客にする気はなかった男だ。
 けれどあまりに煩くしつこいから、一度くらいは良いだろうと許したのだ。
 ―――その結果がこれ。


「わ、私はちゃんと言ったぞ!?」
 それには楼主も必死で反論する。
 男の罪を一緒に被りたくはないのだろう。
 何の縁もない男のために我が身を滅ぼしたくはないのは当然だ。

「―――聞いて無視か。良い度胸してんじゃないか。」
「――――――ッッ!」
 股間のものを思いきり踵で踏む。
 男がうめき声を上げたが、そんなもの知ったことではない。
 これで使いものにならなくなったとしても、だから何だというのだ。
 むしろこの程度で済まされることを喜ぶべきだ。
「この紫蘭様に逆らうとは身の程知らず。妓楼のルールも知らない馬鹿が来るんじゃないよ。」
 紫蘭の怒りは頂点に達していた。

 よりによってあの子に手を出すとは。
 彼と同じように自分だって殺してしまいたいが、それは妓楼の掟として許されない。
 花泥棒への罰として許されるのは制裁を加えて追い出すまで。


「―――王都中の妓楼に2度と足を踏み入れることは許されないと思いな。」
 王都中の妓楼の最頂点に立つ金香楼の、その最上の存在。
 その影響力は最下層の妓楼まで全ての店に及ぶ。
 彼女の怒りを買った男は、2度とこの地に足を踏み入れることはないだろう。

 そうして次に、紫蘭は足下の男へも目を向ける。
「…お館サマ。アンタも2度目はないよ。別に楼主はアンタじゃなくても構わないんだ。」
「わ、分かったからそれだけは…!」
 今の地位を失っては、彼もここでは生きていけない。
 この妓楼の実質的な権力者の言葉に、お飾りの楼主はただ青くなって縋るしかなかった。

「…一番許せないのは私自身だけどね。」
 守れない。私とは違うあの子を大事にしたい、守りたいのに。
 非力な自分が何よりも悔しかった。
++




→次へ





---------------------------------------------------------------------


間に合いましたね。
ブチ切れ李翔さん容赦なし。
でも蘭姉さんのが酷いことしてますが…

そんな最後にちょろっとオマケ。
姉さんは普通の妓女ではないという話です。
…って違いますね。すみません。


次回からエピローグなのですが、これまた長いので2つ分け。


2012.4.20. UP



BACK