鈴蘭 -3-




「―――さすがは紫蘭が大切にしてきた花だ。」
 いくつかの賛辞を耳元で囁かれた気がしたが、今の夕鈴の耳には入ってきていない。
 ひたすら顔を隠して、男の腕の中で小さくなっていた。

(どうしよう…っ)
 逃げられないのは分かっている。
 分かっているけど、怖い。

 初めての夜。
 知識としては紫蘭から教わっていても、ただそれだけだ。
 それは何も知らないのと同じ。


「…っ」
 視界の端に寝台が映って、あからさまに身体がビクつく。
 それに気づかれたからかもしれないが、寝台の上には思ったより優しく下ろされた。

 この人は優しい人なのだと気づく。
 さっきまでの怖い雰囲気はもうなくて、気遣われているのが分かったから。
 この人は優しい。分かってる。
 …けれど、それでも身体の震えは止まらない。


「…そう 怖がらなくて良いよ。」
 不意に頭をぽんぽんと撫でられる。
 あまりに場に不似合いな…子どもをあやすようなそれに、夕鈴はぱっと顔を上げた。
「……え?」
 視線が合うと、彼は安心させるように柔らかな笑みを浮かべる。
「無理強いをする気はないから。」
 自身は寝台の端に腰掛け、強く握りしめていた手を一回り大きな手のひらで包みこんで。
 そこには"そういう"雰囲気は一切なかった。
「初めては誰だって怖い。だから、君のペースで良いんだよ。」

 怖いと思った自分が馬鹿だと思うくらいに、この人は優しかった。
 …私の周りは、優しい人ばかりだ。

 不意に感情が溢れ出て、ポロポロと涙が零れ出す。
 止まらなくて、止められなくて。…力が入らなくて。
「ど、どうしたの?」
 急に泣き出した夕鈴に驚いて彼は慌てる。
 申し訳ないと思ったけれど、一度堰を切った感情はどうしても抑えきれなかった。
「ごめんなさい…っ 私覚悟なんて全然できてなくて… 蘭姉さんも几鍔も私を守ってくれ
 ようとして、私それに甘えてばかりで……」

 自分がどれだけ恵まれているか知っている。
 ここへは半端な覚悟で来たつもりはなかったけれど、優しさに甘えていたのは確かだ。

 そして、ここに来てまで優しくされてしまって…

「…ごめん、なさ……」

 この人はお客様なのに。喜ばせても困らせてはいけない人なのに。
 ああ、きっとお化粧もぼろぼろだ。
 こんなのに高いお金を払わせてしまって申し訳ない。


「―――泣かないで。」
 さっきは頭を撫でてくれた手が頬に添えられて彼の方を向かされる。
 そのまま顔を寄せられて、眦から溢れ出る涙を舐めとられた。
「…っ!?」
 びっくりして目を丸くする夕鈴を、彼はその距離で真っ直ぐに見つめてくる。
「君の本当の名前は?」
「…夕鈴。」
 おずおずと答えると、彼はにっこりと笑った。
「可愛い名前だね。そっちの方がずっと似合う。」

 そして囁くような声で"鈴蘭"ではなく本当の名前を呼ばれる。
 優しい笑顔に心がほんわり暖かくなって、気分も次第に落ち着いてきた。


「…あの、貴方様のお名前を、聞いていませんでした。」
「―――李翔、だよ。」
「りしょう、さま…」
 目の前の優しい人の名前を呼ぶ。
 彼は嬉しそうに笑ってくれた。




 ―――覚悟なんてしていなかった。

 でも、この人なら良いと思った。





「嫌だと思ったらすぐに言ってね。」
 上質の衣が肩を滑り落ちる。
 全ての仕草が丁寧で、肌に触れる手のひらも優しくて。

「いや、じゃないです… 怖い です、けど……」

 怖いのはこの人じゃない。
 これは、知らないことに対する恐怖。

「でも、貴方になら…」
 背中から寝台に落ちて、見下ろしてくる彼に手を伸ばす。
「李翔様…」
 その手を取って絡ませた彼は何故か苦笑い。
「……こういう時にそんな可愛いことは言わない方が良いな。」
「っすみません!」
 何か間違ってしまったのかと謝ると、違うと首を振られた。
「悪くはないよ。―――ただ、そんなことを言われてしまうと男は止められなくなる。」
「〜〜〜ッ!?」
 どうやら違う意味で間違えたらしい。
 真っ赤になるとくすりと笑われてしまった。



「―――夕鈴」

 低く甘く響く声。
 絡んだ指に力がこもる。


 …怖い気持ちは、もう消えていた。












慎様より













「―――溶けてしまうかと思った。」
「面白いことを言うね。」
 可愛いと言われて額にキスを落とされる。
 それを受け入れて、くすぐったいと夕鈴は笑った。

 溺れた熱の余韻の中、彼の腕に抱かれて微睡む。
 互いに生まれたままの姿で抱き合って、まるで恋人同士みたいだなと思った。

 ―――でも、違う。これは幸せな夢。
 もう 夢から戻らなきゃ。


「…初めてが貴方のような人で良かった。」
 私は本当に恵まれている。
 彼のような人が初めてだなんて、本当に奇跡。
「次から頑張れます。」
 この夜の思い出があればきっと大丈夫。
 そう思えるくらい幸せな時間だったから。

「……他の男にも抱かれるのか。」
 低い声で呟いた彼の、夕鈴の肩を抱く力が少し強くなる。
 そんな仕草に錯覚を起こしそうになりながら、苦笑いで自分を誤魔化した。
「それが私の仕事ですから。一生懸命働いて、借金を返すんです。蘭姉さんにも恩返しを
 しなくちゃ」
「夕鈴。」
 早口でまくし立てる夕鈴を遮るように名前を呼ばれる。


『夕鈴、』
 熱に浮かされる中で何度も呼ばれた。
 耳に心地よい声は、今は少しだけ胸に痛い。


「…その名前は忘れてください。私は鈴蘭です。その名前は今夜ここに置いていきます。」
 優しい腕から抜け出して起き上がる。
 これ以上は離れがたくなってしまうから。

「夕鈴…」
 追いかけてくる瞳は揺らいでいるようにも見える。
 でもそれは気のせいだ。
 …私が、そう思い込みたいだけ。
「もう呼ばないでください。大丈夫です。」


 優しい人。嬉しかった。

 普通に出会ってたら、恋をしていただろうか。
 けれど、それも夢のような話。



「優しくしてくださってありがとうございました。今度会うときは鈴蘭として――― 泣く
 こともありませんから。」

 ちゃんと微笑んだつもりだったけれど、彼は笑い返してはくれなかった。




→次へ





---------------------------------------------------------------------


R…要らない気もしますけど。まあ一応やっちゃってるので。
李翔さん、つまり初めての相手は陛下です。
黎夕ですから! 他の男とだなんて陛下が許すわけないですね。

さて、次回は兄貴の登場です。


4/18追記) 慎様にイメージイラ貰ってしまいました〜v エロくて甘くてラブいvv


2012.4.16. UP



BACK