鈴蘭 -4-




「…この馬鹿が。」
 開口一番、不機嫌な顔で言われてカチンとくる。
 でも強く言い返せないのは、自分の失敗のせいだと分かっているからだ。
「まさか転ぶとは思ってなかったのよッ」
 言い訳っぽいなと思いながらも他に言葉が見つからない。


 ―――翌日の相手は几鍔だった。

 相手といってもするのは酌の相手で、個室の卓の上には一通りの料理が並んでいる。
 他の妓楼を知らないのでこれが普通かは分からないけれど、恋人気分を味わうためにとか
 で寝室の前にこういう部屋があるのだという。

 今夜の夕鈴は昨日よりは大人しい出で立ちで几鍔の横に座っていた。
 相手が相手だけに今日は全く緊張していない。
 …一応仕事だからと思ったのだけど、面倒だと言って彼は自分で酒を杯に注ぐ。
 おかげで何もすることがない。




「覚悟はできたのか?」
 杯の酒を軽く飲み干して几鍔はそれを卓に置く。
 そして隣の夕鈴をじっと見つめてきた。
 ―――その顔は真剣で、心配そうにしているようにも見えて。
「……した、つもり、だけど。」
 答えにわずかな揺らぎを覚えた。

 あの人にはそう言った。
 名前もあの場に置いてきた。

 でもまだ、覚悟を要する場に遭遇していないから。
 だからまだ分からない。


「…予定が狂った。紫蘭との策が裏目に出たな。」
 はぁ、と溜息をつきながら頭を掻いて几鍔がごちる。
「何の話?」
 几鍔と蘭姉さんが知り合いなのは知っている。たまに蘭姉さんのところに来てたから。
 でもどうして今その名が出てくるのか。
「―――お前は一晩に1人しか相手にしない激レア物件になってんだよ。」
「は??」
 何だそれ、ととっさに思った。
「しかも、ある程度以上の額を積まなきゃ会うことすら出来ねぇ。」
「何それ。」
 今度は口に出ていた。
 じろりと見られた後に、また深い溜息をつかれる。
「……店は手放さねぇよな。」

 どうやら昨日のあれが原因らしい。
 紫蘭の妹ということで元々注目を集めていた上に、名乗りを上げた者達がまた大物ばかり
 で。
 噂が噂を呼んで、昨日一晩だけでそんな事態になったのだそうだ。


「って、アンタ。お金は大丈夫なの?」
 この場には不似合いなほど現実的だと思いながら、わりと本気で心配している。
「気にすんな。昨日の分だ。」
「…そう。」
 さらっと返されたからそれ以上は言えなくなった。

 ここに来る前から几鍔には世話になりっぱなしだ。

 近所付き合い、幼馴染の腐れ縁。
 ただそれだけでここまで心を砕いてくれている。
 蘭姉さんと2人でずっと守ってくれていた。
 今なら子分達が几鍔を慕う理由も分かる。目を瞑っていたのは夕鈴だ。


「―――今日来たのは、お前の意志を聞きたかった。」
 本当は昨日聞くつもりだったと。

 …昨日だったら、違う言葉を返したのかもしれないけれど。

「昨日決めたの。涙と名前は置いてきたわ。」
 今度は揺らがずに言えた。
「親父さん、毎日泣いてるぜ。」
「…賭博の借金なら絶対嫌だけど、今回のこれは人が好過ぎた結果だものね。仕方ないと
 思うのよ。」

 いつも厄介事ばかり持ってきていた。
 でもそれは夕鈴がどうにかできる範囲だった。

 今回のことは、父さんが全部悪いわけじゃない。

「父さん、頑張って金貯めてるんだってね。そーゆーの苦手なくせに。」
 あの賭博好きの父親が、一切遊ばず毎日一生懸命働いて、夕鈴のためにお金を準備してい
 るらしいと聞いた。
 それを聞いたときは嬉しかったけど、その気持ちだけで良いと夕鈴は思っている。
「そのお金はいずれ青慎のために使えば良いわ。」

 青慎が官吏になるのが夕鈴の夢。
 それさえ叶えば夕鈴は何も望まない。

 そのために選んだ道だ。








「…今日はもう寝ろ。」
 几鍔が立ち上がったので、片付けを頼むために鈴を鳴らす。
 すぐに来た女性に後を頼んでから、夕鈴も彼の後を追いかけた。

「…ん?」
 その途中で彼の言葉の意味に気づく。
 2人が向かうのは奥の寝室だ。でも、彼が言った言葉は違う。

「―――って、アンタは?」
 どこで寝る気なの、と。
 声をかけると振り返った几鍔が近くの長椅子に目を遣った。
「その辺で適当に寝る。」

 やっぱり寝台を明け渡す気らしい。
 そういう雰囲気はなかったから構えはしなかったけど、さすがにそれはどうかと思った。

「でも、」
 一応はお客なんだし。
 高い金を積んで、長椅子に寝るって。それは何だか気が引ける。


「お前みたいなガキ、誰が抱くかよ。」
「何ですって!?」
 そういうつもりで言ったんじゃなかったけど。
 思いきり子どもな扱いがあんまりで、ついいつもの調子で返してしまった。

 ―――だけど、その反応に几鍔が笑う。

「もっとイイ女になったらな。それまで貸しだ。」
 そんな冗談まで言われて。


 ―――頭にぽんと置かれた手はやっぱり大きかった。




→次へ





---------------------------------------------------------------------


えーと、几夕的要素は全くないです。兄貴は兄貴です。
そんな兄貴が大好きです。←?

借金の理由は賭博ではないですよ〜
さすがにそれは父親としてどうかと思うので。
それなりの理由があるわけです。
夕鈴達のお父さん、何だかんだで人好さそうだし…

さて、次回は…あ、李翔さんのターンか。


2012.4.16. UP



BACK