唯一 -3-




[ 3.忠告 ]


「お后様」
「ッ!」
 そこに触れられた瞬間に全身に鳥肌が立ち、とっさに彼の手を振り払う。

(い、今ッ 項に…っ!)
 突然栄賢の指が項を撫でるように触れていったのだ。
 相手が陛下ならそれも許せたけれど、他の人は生理的にダメだった。
「な、なな…!?」
 顔色を赤ではなく青くして、長机の端まで飛び退く。
 この反応は間違っていないはずだ。
「ああ、すみません。髪が解れているのが気になってしまって。」
 そんな風に悪びれなく言われて一瞬納得しそうになる。
 けれど、今のはさすがに許容の範囲を超えていた。
「いきなり触られたらビックリしますっ」
 それでもそのまま言うのはさすがに自意識過剰かと思い、少しだけ別の言葉に置き換える。
 本当に気になっただけで他意はなかったのかもしれないし。

(だって、有り得ない…!)
 夕鈴にはどうしても陛下が言うような理由は考えられなかった。

「そう、ですね……」
「う…っ」
 叱られた小犬みたいにしゅんとうなだれる姿に既視感を覚えて唸る。

(―――でも、この人は陛下じゃない。)

「えっと、次からは気をつけてくださいね。」
「……はい。」

 だから、流されそうになったけど耐えた。
 彼は何故か少し寂しそうな顔をして、夕鈴の言葉に頷いた。




「続いて、人員配置の件ですが……」
 気を取り直して座った二人の間にはわずかに距離がある。
 その距離は正しいものであるはずなのだけど。
「このまま進めてもよろしいですか?」
「………ええ。そのままでお願いします。」
「では、こちらの―――」
 彼の説明は滞りなく進む。相変わらず完璧な仕事だ。
 仕事上問題は何もないのだけども。

(き、気まずい…ッ)
 今の空気を一言で表すとそれに尽きた。
 彼のようにすぐに切り替えができるほど、自分はこういうことに慣れていない。
 挙動不審にならないように振る舞うので精一杯だ。



「…あら?」
 そわそわと視線を彷徨わせていると、彼の足下に見慣れないものが落ちていた。
 さっきまではなかったから、夕鈴のものではないなら栄賢のもので間違いないだろう。
「これは……」

 そっと拾ってみれば、ちょうど手のひらに収まる大きさの丸い手鏡だった。
 裏の螺鈿細工が見事だけれど、彼の持ち物にしては不自然。
 考えられるなら、大切な人への贈り物か預かり物辺りだろうか。

「…綺麗な手鏡ですね。」
「!!」
 途端に彼が表情を変え、ひったくるように夕鈴から奪う。
 びっくりして手放したが、取り返した方の彼ははっと我に返ると慌てて謝ってきた。
「す、すみません。や、あの… これには、触れないでください。」
「そんなに大切な物だったのに、勝手に触ってごめんなさい。」
「いえ…」
 小さな声で答える彼はもういつも通り。

 今のは―――いつも穏和な彼からは想像が付かない、見たことのない形相だった。
 それだけに、余計なことをしたと申し訳なく思う。

(あれ…?)
 そういえばと、ふとあることに気づく。
 最近の彼の話から、消えていたものがあった。














「狼陛下唯一の花に手を出そうとするとは… 彼も命知らずですね。」
「…貴方まで陛下と同じことを仰るのですね。」
 見知った声にふり返ると、予想通り絽望がそこに立っていた。
 たった今別れた栄賢に「近い!」と注意したところを見られていたのだ。
「それが有り得ないことは絽望さんもご存知でしょう?」

 だって、彼には将来を誓った女性がいるのに、と。
 だから夕鈴は有り得ないと思っていた。

 そう、栄賢は郷里に恋人がいる。
 彼女の話は夕鈴も何度も聞いたし、他の人達だって同じはずだ。
 彼が彼女にどれだけベタ惚れなのかは、聞いている方が胸焼けするほどだったはず。

「遠くの花より近くの花に目移りすることは多々あります。狼陛下の真実の愛を勝ち取っ
 た貴女は希有な例ですよ。」
 けれど絽望は夕鈴の意見を根本から否定する。
 自分の例は特殊なのだと。
「思い当たることはありませんか?」
「……」
 何の反論もできなかった。

 確かに、ここ最近彼女の話題が消えている。
 あんなに毎日のように話していたのに。
 「会いたい」と、あんなに言い続けていたはずなのに。

「でも、」

 それでも夕鈴は信じられない。
 あんなに好きだった人を忘れることができるのか。
 そして同時に、唐突すぎではないのかと考えた。

 心変わりをするには不自然すぎる早さだ。
 まるで、何かに取り憑かれているか操られているかのように、、


「―――決して、あの男と二人きりにならないようになさってください。」
「っ?」
 不意に顔を近づけてきた絽望が耳元で囁く。
「貴女は無防備すぎます。」
「りょ」
 彼の顔を見ようとした瞬間、肩を押されて引き離される。

「――――え、」
 その瞬間、二人の間を風が抜けていった。

「えぇっ!?」
 ビックリして何かが飛んでいった方を見ると、床に巻物が転がっている。
 どうやらあれが飛んできたらしい。
「……一歩間違えばお后様に当たりますよ。陛下。」
 巻物が飛んできた方向―――絽望の視線を追いかければ、そこに陛下が立っていた。
 何故かとっても不機嫌そうな顔で。
「安心しろ。狙ったのはお前の頭だ。」
「相変わらず容赦ないですね。―――ではお后様、気を付けられてください。」
「あ、ありがとうございます。」
 全く動じた様子もなく、優雅に一礼すると彼は去っていった。



「何の話だ?」
 不機嫌な顔のまま、彼は夕鈴を引き寄せる。
 相変わらず私が絽望さんと話した後は機嫌が悪い。
「え、と… 忠告?」
「―――この距離で?」
 え?と思う間もなく顔が近づき、耳をぺろりと舐められた。
「ぎゃあ! 何するんですかっ」
「消毒」
 叫んでとっさに耳を押さえるけれど、彼の方は悪びれない。
 焼けるように耳が熱い。顔の方もたぶん耳と同じくらい赤い。
「何もされてません!」
 だからこの扱いは理不尽だと抗議した。

 絽望さんは私に触れない。
 私とのやりとりは言葉遊びのようなもので、私のことを狼陛下唯一の花と理解しての会話
 だ。彼はそこをちゃんと弁えている。

 …そう思うと、栄賢のあれは確かにおかしい。
 真面目で素直で、そして空気を読むのに長けているはずの彼が。
 その彼が何故、あんな態度を取るのか理解できない。


「それで、何の忠告だ?」
「…大したことではありません。陛下が気にすることはないですから。」
 詳しくは言わない方がいい気がして曖昧に誤魔化す。
 陛下だけでなく絽望からも言われたとはいえ、夕鈴はまだ半信半疑なのだ。
「へぇ。」
 剣呑に光る瞳に怯むけれど、これを陛下に言ってはいけない。
 それくらいは夕鈴にだって分かる。
「むっ 無防備だってからかわれただけですから!」
 だから、本当のことを言いつつも別の理由に置き換える。
「后の自覚がないと柳方淵にも怒られたばかりですよっ 確かにバタバタと走ってた私が悪
 いんですけど!」
 きょとんとした後、陛下は思わずといった風に吹き出す。
 この後に言われる言葉は分かっていた。

「夕鈴はそのままで良いよ。」
 そうして頭を撫でられる。
 表情もいつの間にか優しいものに戻っていた。


(…機嫌は直ったのかしら?)

 彼に秘密にしていることに罪悪感を覚える。でも、今はまだ言えない。
 陛下に言ったら絶対に止められるのが分かっていたから。
 もうちょっとだけ様子を見たかった。















「我が后は私に何を隠している? 気を付けるとは何だ?」
 彼女を後宮に帰した後で絽望を呼び出し問い正す。
 あれ以上問いつめても言いそうになかったから矛先を変えることにしたのだ。

 それに、あまり追いつめるとあの兎は何をしでかすか分からない。
 今も昔も彼女は予想外で、常に想像の斜め上をいく。

「…ご本人は何か仰っておられましたか?」
「無防備だとからかわれた、だそうだ。」
 顔を上げた絽望と目が合うと、彼はふと表情を弛めて苦笑いした。
「その通りですよ。無防備すぎて… 警戒心がないのは危険です。」
 けれどそれは一瞬のこと。
 笑みを消した男はすっと目を細めて黎翔にも"忠告"する。
「陛下。あの方から目を離されないように、できる限り傍に置かれてください。」
 むろんそのつもりだ。
 そう思って「分かった」と答えるが、絽望の表情は硬いまま。


「あの瞳は―――狂気の沙汰。お妃様の御身に危険が及ばないか心配しております。」




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だんだん長くなっていく…(笑)
でも切るところがないのでこんな感じです〜…
夕鈴と、陛下と、絽望さんと。たぶんみんな彼に対する認識が違ってると思う。


2016.4.12. UP



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