唯一 -4-




[ 4.恋人 ]


「ふぅ… 何だか疲れたわ…」
 淹れてもらったお茶を一口含み、夕鈴は深く溜め息をつく。
 ついさっきまでも栄賢と打ち合わせをしていた。
 触れられまいと気を張っていたせいでよけいに疲れたのだ。


 本当に、最近の栄賢の行動は目に余る。
 陛下に内緒で対処しようとしているけれど、そろそろ限界だ。
 老師も浩大も、いい加減陛下に言えとせっついてくるし、正直陛下に隠し事をしている罪
 悪感も半端無いしで疲れてきた。
「…でも、どうやったらあの手鏡を手に入れられるかしら。」
 異常な反応を示したのはあの手鏡に触れた時のみ。
 怪しいことこの上ないのだけれど、栄賢のあれに対する警戒心もかなりのもので、あの日
 以外目にしたことすらない。
「……どうしようかな……」



「―――お后様」
「…っ」
 考え込んでいたところを突然声をかけられ、夕鈴は思いきりびくりと肩を震わせてしまう。
 けれど自分は狼陛下の唯一。動揺を悟られてはいけない。
 どうにか心を落ち着けて殊更ゆっくりと顔を上げると、―――その疲労の原因が目の前に
 立っていた。
「……私は、人払いしたはずですけど?」
 思わず漏れかけた溜め息をかみ殺し、代わりに軽く睨みつける。
 相手はそれを気にした風でもなく、手に持っていたものを卓の上に乗せた。
「すぐに戻ります。これをお渡ししたくて。」
 器に等間隔の円を描いて乗せられた可愛らしい焼き菓子。
 紅珠が、貴族の女性の間で流行っているものだと言ってこの前持ってきたものと同じだ。
 可愛らしい見た目だけでなくその味も人気で、夕鈴もまた食べたいと思っていた。…そう
 いえば、そのことを彼の前でも言った気がする。
「…ありがとう」
 そう言えば、彼は嬉しそうに笑った。

 彼の行動は全て好意からくるものだ。それは分かっている。
 だから無碍に断れない。

「…お茶請けにちょうど良いわね。」
 期待に満ちた瞳に負けて一つを手に取った。
 口に含めば記憶の通りに甘い果汁が口内に広がる。
 美味しい。やっぱりとっても美味しい。残りは陛下とゆっくり食べたいくらい。
「美味しいわ。覚えててくれたのね。」
「はい。貴女のことですから。」

(…うん、それが仕事だからよね。)
 彼の言葉を無理矢理無害なものに変換する。そうしなければまずい。

「残りは包んで、今夜、へい…か、と……」
 菓子の方へ視線を落とそうとしたところでぐらりと目眩がした。
「……?」
 視界がぼやけて手をついてみても、もうすでに座っていることすらできない。
 あっという間に意識が遠のいていく。

(やば……)
 落ちる、と思ったけれど、床に身体を打ち付ける衝撃はこなかった。
 倒れかけた身体を誰かに支えられ、そのまま抱き上げられる。

「陛下…?」
 いつもそうだったから、今回も大好きな人が助けに来てくれたのかと思った。
 彼の顔を見て、その笑顔を見て安心したいのに、目が開かないし頭も上がらない。
 懐から香る甘ったるい匂いにさらに頭がくらくらする。

「―――共に帰ろう。」
「…ッ」
 なのに、聞こえた声は彼じゃなかった。
「真面目な君はダメだと言うのだろう。でも、もう待てないんだ。―――大丈夫。君はた
 だ浚われればいい。」

(だめ、これ以上は……)
 これ以上は誤魔化せない。栄賢を庇えない。
 なのに、押しのけたいのに力が入らない。











「夕鈴!」
 感情のままに叫んだ名は思った以上に鋭く響いた。
 その声に、夕鈴ではなく男の方が振り返る。

「―――できれば、もう少し待っていただきたかったですね。」
 思った以上に早かったですねと相手は困ったように笑う。
 夕鈴は男の腕の中に抱かれ…目を閉じたその様子は身を預けているようにも見えた。


『あの瞳は―――狂気の沙汰。』
 いつもは飄々とした男が真剣な顔をして言った言葉が頭をよぎる。
『お妃様の御身に危険が及ばないか心配しております。』

 …夕鈴の意志を尊重して待つべきではなかったか。


「…栄賢。これはどういうことだ。」
 低く、冷たく、問う声も顔も、誰もが怖れる狼のものだ。
 しかし相手はそれに怯んだ様子も見せない。
「―――恋人を迎えに来たのです。」
「何だと…?」
 彼女を見つめる甘やかな瞳は恋い焦がれる者のそれ。
「貴方に奪われたこの愛しき人を、」
 自分の目の前で、男はそっと腕に力を込めて彼女の身を引き寄せる。

「――――――」
 それを目にした瞬間、己の理性が焼き切れる音がした。












「っ きゃあ!?」
 突然、しかも些か乱暴に身を揺られてぱっと目が覚める。
 気がつけば頭の奥が痺れそうな甘い香りは離れ、代わりに慣れ親しんだ香りに包まれてい
 た。
「え? え、え??」
 足下には、浩大に取り押さえられた栄賢の姿。
 抱き上げられているため、すぐ横には麗しく愛しい狼陛下の顔。
「え、ちょ、何事ですか!?」
 いきなり変わっていた状況に、夕鈴はパニックになった。

 何が何だか分からない。
 自分が意識を失っていた間に一体何が起こったのか。

「この男を獄舎に放り込んでおけ。」
「ええっ!?」
 彼は驚きっぱなしの夕鈴にも一瞥もくれず淡々と命を下す。
 怒っている。…いや、これは完全にキレている。

(マズイ…)
 ここまで来たら夕鈴にも止められるか分からない。
 でも、何か言わないと栄賢の身が危ない。

「へ、」
「触れを出せ。この男は明朝処刑する。―――見せしめとしてな。」
 思った以上の事態に夕鈴はぎょっとなった。
 何をどうしたらそんなことになるのか。
 言葉をなくしているその間に、栄賢は連れて行かれてしまった。


「ちょ、陛下ッ!? 落ち着いてく…んぅ!」
 こちらの言葉を遮るように、声を発しかけた口が彼のそれで塞がれる。
 一度離れたときに見つめられた瞳は、言われることなど分かっていると言っているようだっ
 た。…そしてそれを許さないとも。
「優しい君があの男を庇う声など聞きたくない。」
「で、でも」
「聞かない。」
 それ以上話すなと、再び言葉を封じられる。

 深く深く求められ、吐息すらも奪われる勢いで。
 何も、考えさせないくらいに。


 ―――解放される頃にはもう、息も絶え絶えになっていた。











*











 あの後、陛下の部屋に連れ去られて、―――昼間から寝台に縫い止められた。
 おそらく…いえ、きっと。私が逃げ出して彼を助けに行ったりしないようにだ。


 そして…… 目が覚めたらもう翌朝だった。

 陛下は刑の執行は明朝だと言っていた。
 けれど、終わったならすぐにここに来ているだろうから、今ならまだ間に合うはずだ。

「…絶対あの人、これを狙ってたわね……」
 身体中が痛くて億劫なのを叱咤しながら起き上がる。
 こういうとき、体力の差が恨めしい。


 私が意識を失った後で彼が一度出ていき、夜中に戻ってきたことを夕鈴は知っている。
 陛下が戻ってきたとき、身体は動かなかったけれどわずかに意識はあったから。
 外気に冷えた身体で私を抱きしめながら、小さな声で謝られたのも夢じゃないはず。

『ごめんね、夕鈴… でも、僕は止めないから―――』
 聞かれると思っていないからこその言葉は重く、あの人の決意の固さを知る。

 でもダメだ。こんなこと絶対許せない。
 こんな馬鹿みたいなことで、あんなに優秀な部下を失うなんて冗談じゃないわ。




「あ……」
「申し訳ありません。」
 急いで着替えて部屋を出ようとしたら、寝室の外で待っていた女官長に止められた。
「お后様をここから出さぬようにと、陛下から仰せつかっております。」
 物理的に止められたわけではない。彼女はただ夕鈴の前に立っているだけだ。
 けれど、そこで夕鈴の足は止まった。
「……どうしても、ですか。」
「はい。」
 深々と頭を下げる彼女が引く気配はない。
 無視して出て行ったところで外には見張りの兵がいるだろうし、暴れたところで何か変わ
 るとも思えない。
 やっぱり、そう簡単にあの人が出て行くことを許すはずがないか。

「……分かりました。」
 たっぷり沈黙を開けた後で、夕鈴は溜め息とともに言葉を吐き出した。
「その代わり、全てが終わった後に包み隠さず話してくださるようにと。」
「必ずお伝えします。」
「お願いしますね。」
 はっきりとした答えを得て踵を返し、寝室に戻ると言外に告げる。
「お食事はどうされますか?」
「今は要りません。陛下が戻られるまで一人にしてください。」
 彼女らしくなく感情のこもらない声で人払いをしてから寝室に入った。




 そして、そのまま静かに奥に引きこもる。―――ような、大人しい性格はしていない。


「浩大! そこにいるんでしょう!?」
 部屋の真ん中に立つと、前を見たまま声を張り上げる。
 隠密相手に居場所を探しても無駄なので視線を動かすことはしない。

「…何? 逃げる手助けならできないよ。」
 思った通り、上から声だけが降ってきた。

 陛下は見張りのつもりで彼を傍に置いたのだろう。
 けれど夕鈴には好都合だ。彼ならきっと誰より早く動いてくれる。
「違うわ。ちょっと探して欲しいものがあるの。それから、老師を呼んで。」




→次へ





---------------------------------------------------------------------


栄賢さんがついに動いて、陛下がブツッと切れました。

うむ。夕鈴が大人しくしているはずがないですね。
そして部屋に連れ込まれた夕鈴が何をされたかは… もちろん書きませんからね!(笑)


2016.4.13. UP



BACK