唯一 -5-




[ 5.唯一 ]


 太陽が照りつける石畳の広場には、急な収集にも関わらず主立った大臣達が集まっていた。
 その後方にも、野次馬のように官吏達が大きな輪を作っている。

 中央には、縛られた一人の男と、それを見下ろす狼陛下の姿。
 一体何事だろうかと、彼らは困惑しながら目の前の光景をただ見つめていた。



「―――何か言い訳はあるか?」
 自ら愛剣の切っ先を男の喉元に当て、相手の顔を上向かせる。
 この場に連れて来られたときから栄賢は静かだった。取り乱すこともなく命乞いをするよ
 うなこともしない。
 黎翔を見つめるその瞳にも怯えの色は全く見えなかった。

「何もございません。…私は彼女を愛しています。私の真実はそれだけです。」
 はっきりと聞こえた声に、ざわりと周囲がどよめく。
 息を呑む者、驚愕に目を見張る者、「まさか」と声を漏らす者。誰もが驚きを隠せない。

 昨日栄賢が犯した罪―――彼が狼陛下唯一の花を連れ去ろうとしたことはすでに広まって
 いる。
 それが狼陛下の逆鱗に触れ、翌朝には処刑という事態に陥っているのだ。
 通常ならあり得ないことだが、溺愛している彼女が絡むとやりかねないというのが大方の
 意見だった。


「それで連れ去ろうとしたのか。」
 冷え冷えとした瞳と声は人々を震え上がらせる。
 自分に向けられたものでなくても恐ろしいものは恐ろしいのだ。
 それでも真っ直ぐに黎翔を見上げる栄賢は目を逸らさない。
「―――奪ったのはそちらではありませんか。」
 その瞳に今映っているのは、隠しようもない怒りだ。
「貴方が私達を引き離した。私達は」
「黙れ。あれは初めから私のものだ。」
 栄賢の言葉を遮り、動揺する周囲も一睨みで黙らせる。

「…あれは私が逃がさぬと言ったことを忘れているようだ。他のどんな願いを叶えようと、
 それだけは許さぬ。」
 執着とも言える愛を吐露しつつ、黎翔は栄賢ではなく周囲に群がる臣下達をぐるりと見渡
 す。
「―――ちょうど良い、他の者達も覚えておけ。私は夕鈴以外に妃を娶るつもりはない。」
 静まりかえった場に、唯一放たれた声はよく響いた。
「そして焼き付けろ。あれに手を出した者の末路を。」
 一寸の躊躇いもなく剣を振り上げ、周りは皆息を呑む。
 怒りに燃えた狼陛下を止められる者などいない。


「陛下っ!!」

 …否。一人だけ存在した。
 彼を止めたのは、狼陛下唯一の花、正妃夕鈴の声だった。





 皆の視線が一点に向き、輪の一部が割けて彼女のための道が開けられる。
 夕鈴はそこから駆け込むと、振り下ろされる直前の刃を怖れることもなく、無理矢理二人
 の間に割り込んだ。
「違います! この方とは何もありませんでした!」
 彼は何も応えない。剣が下ろされることもない。
 ただ、細めた目で夕鈴を見下ろすだけだ。
「私が…ッ」
 ああもう!と、焦れた夕鈴はおもむろに手を伸ばし、ぐっと相手の襟元を掴んで引き寄せ
 る。
 驚きに目を見張る秀麗な顔が一気に近づくのを感慨深く感じながら、勢いのまま彼に口付
 けた。

「私が愛しているのは貴方だけです!」


 ここがどこだとか、周りに誰がいるだとか、そんなことはどうでもいい。
 今 一番大事なのは、この人の誤解を解くことだ。

「ッ貴方が信じるのは私ですか、この方ですか!?」

 至近距離から大好きな彼の瞳を見つめ続ける。
 夕鈴だけに許された距離。手放さないと決めた場所だ。


「………ズルいな、君は。」
 ふと、彼の表情が緩んで力が抜けた。
 苦笑いしながら、振り上げていた剣をゆっくりと下ろす。
「そう言われたら君を信じるしかない。」
「良かった…」
 ほっとして皺になった襟元から手を離すと、代わりに彼から剣を持たない腕で引き寄せら
 れた。


「何故… 何故? 貴女は私の……っっ」
 困惑した顔で見上げてくる彼に気づいて、夕鈴は抱きしめられていた腕からそっと離れる。
 陛下の次は彼をどうにかしなくてはならなかった。

「…ねえ、栄賢。貴方は自分の恋人の名前を言える?」
「私の恋人は貴方です。」
 迷いなく答えてくるけれど、それは違うと首を振る。
 それは質問の答えではないからだ。
「栄賢。私は、貴方の恋人の名前を聞いてるの。」
「名前…? 名前は、……蓮、花…」
 ぽつりとこぼし、栄賢は自分の言葉にハッとした顔になる。
 ようやく見つけた綻びに、夕鈴はニッと口角を上げて笑った。
「そう、貴方の恋人は"蓮花"。私じゃない。」

「見つけたよー」
 ちょうどいいタイミングで夕鈴達の足下に浩大が降りてくる。
 その手には探してもらっていた物が握られていた。
「浩大! ありがとう。」
 浩大から夕鈴の手に渡されたときにそれが何であるか気づいたらしく、栄賢の表情がさっ
 と変わる。
「ッ 返せ!!」
「おっと、」
 ここにきて初めて彼が取り乱したが、暴れ出す前に浩大に押さえ込まれた。

「夕鈴…それは?」
 陛下もまた不思議そうに夕鈴が手にしているそれを覗き込む。
 彼にしてみれば何の変哲もない女性用の手鏡だ。
「彼はこれに異常に執着していました。」
「牢番にも鏡を返せと喚いていたらしいよ。」
 浩大の証言からしてもこれで間違いないらしい。
 手鏡を奪われないようにとしっかり握り込んで彼の方へ視線を落とす。
「…そもそも、毎日事あるごとに故郷で待っている恋人の話をしていた彼が、突然態度を
 変えるなんておかしいんです。」
 だから有り得ないと夕鈴は言ったのだ。

 塩でも舐めていないと聞いてられないような惚気話を延々と聞かされた。
 いつか迎えに行くのだと、少年のように顔を染めて言っていた。
 それが突然変わるなんておかし過ぎる。誰より近くで見ていた夕鈴だからこそ確信が持て
 ること。

「この世には人の心を操る呪術があるという話を老師から聞きました。戻す方法は―――
 陛下。」
 身体ごと彼に向き直り、手鏡を陛下に渡す。
「その鏡を割ってください。…浩大、彼を絶対に離さないで。」
「止めろ! 返せ!!」
 背後で喚く声は無視する。
 いつも穏やかな彼らしくないその態度こそ、彼が正気ではない証拠だ。
「お願いします。」
 夕鈴からそれを受け取り、栄賢を一瞥してから陛下は手鏡を地面に落とした。
 カツンとかたい音がしたものの、その程度では鏡は割れない。
 それは彼も分かっていて、垂直に持った剣先を鏡面へ振り下ろす。

 パキンとひび割れた音と、悲鳴のような耳障りな高い音。
 周りも思わずといった風に耳を押さえる。

「え―――……?」
 そして、その音を聞くと同時に、栄賢の瞳が正気を取り戻した。


「わ、私は何を…? 私は、何故縛られて……!?」
 今の状況が掴めないと、困惑しきった顔で自分の周りを見渡す。
 その様子はすっかりいつもの栄賢だ。
「気がつきましたか?」
 夕鈴が声をかけると彼はぱっと顔を上げる。
 そうして夕鈴が一歩近づこうとしたところで浩大が彼から離れた。
「お后様…? これは一体どういう…」
「何も覚えていませんか?」
「? 何をですか??」
 演技ができるような相手でもないし、本当に何も覚えていないのだろう。
 それならその方が良いとそれ以上の追求はせず、代わりにすっと自分の足下を指さす。
「では、この鏡は?」
 割れた鏡を見て、彼は再び表情を変えた。
「!! それが何故割れているのですか!? 大事な頂き物なのに!」
 けれど、先程までのような狂ったような叫びとは違う。
 真面目な彼らしい、青ざめた顔の焦った声だった。
「これはどなたから頂いたものですか?」
「え、それは、」
 栄賢が答えようとしたところで周囲がざわつく。
 突進とも言える勢いで大きな足音がこちらへ近づいてきたのだ。

「ざーんねんッ」
 けれど、何事かと夕鈴が視線を向ける前に事は済んだ。
 こちらへ向かってきた下っ端兵士を浩大が背後に回って締め上げたのだ。
「隠蔽は通用しないよ。」
 地面に引き倒され、小さく呻き声を上げながら兵がギリッと睨むが浩大の手は緩まない。
 見渡してみるけれど、その男の他に動く気配はなかった。

「誰だ?」
 陛下は一度も騒動の方には目を向けず、栄賢を見下ろしたまま返答を促す。
 コクリと頷いてから栄賢はゆっくりと口を開いた。
「―――崔温樹様から、」

「嘘だ! これは何かの陰謀に違いありません!!」
 言い終わるのを待たずに叫んだのは崔温樹本人。
 でっぷりと張ったお腹にはたらふくため込んだ贅が詰め込まれていそうな御人だった。

「…いきなり何だ。まだ何も言っていない。」
 陛下は不愉快そうに眉を顰めて彼を見、
「余計怪しいって。」
 兵士の背の上で相手を押さえつけたまま浩大は肩を竦める。


「崔温樹、詳しく話を聞かせてもらおうか。」
「違います! 私は何も知りません!!」
 最前列に陣取っていた彼は周囲の視線に青くなりながら違うと何度も首を振る。
 少しずつ自分から引いていく人々を引き留めるように手を伸ばすが、避けるように皆離れ
 ていった。
「濡れ衣だ! 私は何もしていない!!」

「んー こっちを絞った方が出てくるかもね。」
 今も自分の下で暴れている男の頭を押さえ込み、軽く膝を入れて黙らせながら浩大が軽く
 笑う。
「両方連れていけ。それから、誰か栄賢の縄を解いてやってくれ。」

 その後狼陛下の命でその場は解散となり、ざわざわと騒がしいながらも皆その場を去って
 いった。
 そして、栄賢が縄を解かれて一息つく頃にはその場には栄賢と陛下、それから夕鈴を残す
 だけとなっていた。





「栄賢、大丈夫?」
「あ、はい。少し腕が痺れていますがたぶんすぐに戻ると思いますし。」
 手首が擦れて赤くなっているが痛くはないから大丈夫だと彼は柔らかく笑う。
 親しげながらも節度を持った距離は、純朴ないつもの栄賢だ。

「ご苦労だった。」
 陛下もまた座り込む栄賢の前に自ら膝をつき、労るように肩を叩く。
 そのことに多少は慌てつつ、意味が分からないまま「ありがとうございます」と栄賢は答
 える。
 褒美をやらねばと笑う陛下の機嫌もすっかり直ったようだった。




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なんか夫婦陛下より恋人陛下に近いなーって思ったりも。
今回の件でいろいろ言う輩は大人しくなりました。
あの狼陛下を恐れず正面から受け止めた夕鈴を見て、誰も敵わないと思ったんでしょう。

夕鈴は呪術といっていますが、たぶんあれは催眠術の類です。
栄賢さんは単純っぽいのできっとあっさりかかったと思われる(笑)

次回、最後は短めに終わります。


2016.4.14. UP



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