お妃様と黒い犬 1




 それはとある日の朝、庭に面した回廊での出来事。
 王宮での日常は夕鈴にとっては常に非日常ではあったけれど、それはいつも以上に非日
 常なもので―――


「!?」
 あまりに突然なことだったので驚く間もなかった。
 黒い影がいきなり夕鈴の目の前に現れたのだ。
「え… きゃ!?」
「お妃様!?」
 彼女めがけて飛びかかってきたその"何か"に、夕鈴は押し倒されてしまう。
 侍女達もかなり驚いたらしく、「兵を」「医者を」と、大慌てで人を呼びに行った。

「いたた…」
 お尻と背中を強くぶつけてしまってかなり痛い。けれど、起き上がろうにも肩を押さえ
 付けられていて身動きが取れなかった。
 彼女達のどちらか残ってもらうように言えば良かったけれど、その時はまだ夕鈴にもそ
 の余裕がなかったから。
「…もうっ、何なの……?」

「ワンッ」

 夕鈴を押さえ付けている黒い影が元気良く吠えた。
 その鳴き声は夕鈴にも覚えがある。
「……犬?」
 そろそろと目を開けると、黒くて大きな犬がふさふさの尻尾を振りながら夕鈴を見下ろ
 していた。
 大きな目がキラキラと輝いていて、かなり上機嫌なのは見ただけで分かる。
「どうして、後宮に犬が…」

 陛下が犬を飼っているという話は聞いたことがない。
 今まで見かけたこともなかったし。

「って、とにかく起き上がらないと…」
 このままじゃ痛いし重いし、衣装も汚れてしまう。
 夕鈴が軽く体を押すと、犬は素直に彼女の上から退いた。
 気性の問題なのかよく訓練されているのかは分からないけれど、どうやら比較的大人し
 い性格らしい。

 起き上がってみて、改めてこの犬の大きさに驚いた。座り込んだ夕鈴と丈があまり変わ
 らない。
「どうやって入ってきたのかしら?」
 そんなことを考えながら、駆られた衝動のままにしばらく撫でてみる。
 頭から背中、胸元と、夕鈴が撫でるとその犬も気持ちよさそうな仕草をした。
 尻尾はさすがに怒るだろうから諦めたけれど、それにしても…
「綺麗な毛並み! きもちいい!!」
 首に手を回してぎゅっと抱きつく。
 ふわっふわの毛並みは綺麗に手入れされているようで、指通りも良いしツヤツヤしてい
 て本当に気持ち良かった。
 こんなぬいぐるみなら抱っこして寝ても良いなぁなんて思えてくる。
「ねぇ、一体…」


「お妃様!」

 お付きの侍女が切羽詰った声で呼ぶので顔を上げると、彼女は見張りの衛兵を呼んでき
 たらしく、後ろから数人の男が付いて来ていた。
「あ、あれです!」
「お妃様から離れろ!」
 侍女が指差すと、彼らは夕鈴が抱きついている犬に一斉に槍を向ける。
 慌てたのは夕鈴だ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 抱きついているのは夕鈴であって犬ではないし。
 夕鈴が彼らを止めると、侍女が青い顔のまま夕鈴を見た。
「ですが、この犬はお妃様を襲って…」
 …いや確かに最初は押し倒されたけど。
 それで驚いて彼女は兵を呼びに行ってくれたのだろうけれど。
 この子は何にも悪くないのだ。
「誤解です! この子は大人しいですから。大丈夫、心配しないでください。」

 懸命に説明すると、しばらくして彼らは手を下ろしてくれた。
 それにホッと胸を撫で下ろしつつ、夕鈴はこの犬のことについて聞いてみる。

「ところでこの子がどこから来たのか知ってる人はいます?」
 最初の反応から大体の予測は付いていたけれど、やっぱり全員が首を横に振った。






















「なんじゃ、その犬はどうしたんじゃ?」
 相変わらずどこからともなく現れた老師は、掃除婦姿の夕鈴の後ろにいる大きな犬に当
 然ながら目を留めた。
「やっぱり老師もご存じないですか。」
「知らんな。その犬がどうかしたのか?」
「たぶん迷い犬だと思うんですけど… 老師が知らないならきっと誰も知りませんね。」
 老師以上に後宮のことを知っている人はいないだろうし。
 となると、最後の手がかりも潰えてしまった。
「陛下には?」
「一応伝えてもらうように頼んでますけど、今日は本殿でのご公務ですから… 陛下の耳
 に届くのは早くてもお昼過ぎになるかと。」
 犬一匹のことで本殿にいる陛下の手を煩わせるわけにはと、夕鈴が頼んだのだ。
 後宮の一部は一時大騒ぎになったものの、大人しいので大丈夫だと夕鈴が説き伏せた。

「それまでは様子見か。それにしてもお主、随分懐かれとるな。」
 黒犬はぴったりと夕鈴の後ろについている。
 おすわりをして尻尾をパタパタと振りながら夕鈴をじっと見上げて。
 可愛いから許してしまうけれど、片時も離れようとしないので少し困った。
「この子 ずっと私に付いてくるんです。掃除婦の格好でもすぐにばれて付いてきちゃっ
 たんです。」
 一緒にいるところを見られたらこの掃除婦バイトがばれてしまう。
 幸いにもここまで誰にも会ってはいないのだけど、ここに来るまで内心ドキドキしてい
 た。
「ま、鼻の利く犬に見た目は関係ないじゃろな。」
「…それはそうですね。」




 夕鈴が掃除に精を出している間も、どこに行くでもなくその犬は大人しくしていた。
 たまに立って歩いては、老師の食べこぼしを舐めたりはするけれど。

「ダメよ、お腹を壊すわ。老師もこぼさないでください。」

 犬には手で制して、老師にも釘を刺す。
 まあ、老師は何度言っても聞かないけれど。


 仕方ないのでこぼすなと言うのは諦めた。
 代わりにそれをその子が食べないように見張っててくださいとお願いして。


 そして掃除を再開させた夕鈴の後ろで、しばらく老師と犬の攻防戦が繰り広げられてい
 たのだった。








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2011.3.9. UP



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何故か長くなったので2つに分けました。
変だな… 予定では小話程度の短いお話だったはずなのですが…
 


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