「陛下! 良かった…!」 彼が目を覚ましたことに安堵して夕鈴はホッとする。 このまま目覚めなかったらどうしようと本気で心配していた。 陛下がある理由から気を失ってから数刻。 あとは待つしかできないからと皆を下がらせて、夕鈴は1人で彼が目を覚ますのを待っ ていた。 「ご気分は如何ですか? すぐに人を…」 「―――何者だ?」 その彼女の喉元に、起き上がった彼が枕元の小剣を突き付ける。 あと少し近づいていたらその鋭い切っ先で皮膚が切れていた。 「へい、…」 「どうやって入り込んだ?」 警戒心を剥き出しにした獣のようなその雰囲気に気圧され、普通の人間ならまず怯む。 ……が。 プツッ 「何を寝ぼけてるんですかッ」 けれど彼女は真っ先にキレた。 小剣の存在など気にしないとでもいう風にいつもの調子でびしりと指差す。 「ねぼ…」 「老師を呼んできます!!」 呆然としている陛下を置き去りにして、夕鈴は肩をいからせ大股で部屋を出た。 老師が黎翔の寝室を訪れた時、彼は寝台に座ってムッスリとしていた。 片膝を立ててその上に頬杖をつき、入ってきた老師を一瞥する。 顔色は悪くないようだと安心しながら老師が椅子の上に登ると、鋭い視線をそちらに向 けた。 「どうやら大事には至らなかったようですな。」 「…さっきの女は?」 不機嫌さを隠さない彼に、老師は誰のことかと首を傾げる。 「はて? 妃以外に誰かいましたかの?」 この部屋には妃だけが残って看病をしていたはず。 そう思って答える老師の言葉を聞いて、今度は黎翔が眉を寄せた。 「妃? どういうことだ。私がいつそれを許した?」 「……」 予想外の反応に老師は目をぱちくりさせる。 その前で黎翔は不愉快そうに髪をかきあげて、今度は自分の姿を見渡した。 「そもそも何故私は寝ていたんだ?」 「陛下…?」 何かがおかしい。 怪訝な顔をする老師を通り越し、黎翔の視線は部屋の入口に向かう。 「誰だ。」 その声に応えるように、帳の向こうから茶器を乗せた盆を持った夕鈴が現れた。 「…あの、お茶を…お持ちしたんですけど……」 感情が凍ったような表情で、躊躇いがちに言いながら視線を落とす。 手元では彼のために淹れたお茶があたたかな湯気を立てていた。 「こちらに置いておきますね…」 近くの卓に盆を置いて夕鈴はさっと踵を返す。 老師の静止の声は耳に入らなかった。 「泣いておるのかと思ったぞ。」 隣室の椅子に座っていた夕鈴の背中に老師が話しかける。 「泣く必要なんてありません。」 振り返った夕鈴は確かに泣いていなかった。 ただ、その表情は硬い。 「さすがは狼陛下の花嫁じゃな。―――ところでお主、気づいたか?」 「どこか様子が変だな、というのは…」 知らないものを見るような目だった。 あんな警戒心剥き出しの陛下なんて初めてで、内心ではどうしたら良いのか分からなく て。 本当は動揺してしまっていた。 その動揺を落ち着けるためにこっちに逃げたのだ。 「何か、あったんですか?」 「…そろそろメガネも来る頃じゃろ。そうしたら話すとしよう。」 いつになく難しい顔で老師が静かに言った。 「おそらく陛下は… 記憶を失くしておられるようじゃ。」 「「はい?」」 見事に息の合った返答を返した2人は表情も同じで唖然としていた。 そのまま戻れない夕鈴の隣で、さすがに李順は早々に己を取り戻すと先を促す。 「即位して三月くらいかの。まだ国は安定しておらぬと申されておる。」 夕鈴が隣室で待っている間に老師は話を聞いていたらしい。 即位して三月というなら、まだ反乱を鎮圧するために陛下も奔走している時期。夕鈴と 出会うだいぶ前だ。 「だから私のこともご存知なかったんですね…」 「何を勝手に安心してるんですか。」 夕鈴の呟きを聞き漏らさなかった上司がじろりと睨んできた。 「このことが周囲にバレれば大変なことになりますよ。」 「うっ そうですね…」 陛下が記憶喪失になったなどと知れれば絶対大騒ぎになる。 それを良いことに、良からぬことを考える輩も現れないとは限らない。 「まあ、頭を強く打たれたようだからの。おそらく一時的なものじゃな。」 「…でも、いつ戻るかは分からないんですよね。」 すぐに戻るかもしれないし、ずっと後になるかもしれない。 それは不確実で、老師のようにどっしりと構えることはできない。 だって、彼は夕鈴を知らないから。 彼の記憶が戻るまでずっと、あの目で睨まれる。 それは怖い、というより不安に思う。 "自分"という存在が否定される気がして… それとも必要ないと家に帰されてしまうのだろうか。それも辛い。 「―――では夕鈴殿。責任を持って陛下のお世話をしてください。」 メガネを上げた鬼上司が、今思っていたことと真逆のことをさらりと言った。 「え!? って、私のことも分からないのに!?」 (てゆーか さっき喉元に突き付けられたんですが!?) 「元はと言えば貴女を庇ってこういう事態になったんですよ。」 李順に指摘され、至った経緯を思い出した夕鈴は苦い顔をする。 確かにその責任は確実に夕鈴にあった。 「…分かりました。」 帰れと言われるよりは良いかもしれない。 陛下に拒絶されるのは嫌だけど。 でも、陛下が記憶を失くしたのは夕鈴のせいだというのも事実で、すべてを踏まえると やっぱり自分の役目のような気がした。 「気を付けるんじゃぞ。当時の陛下は今よりずっとピリピリしておられるからの。」 …老師のアドバイスにはちょっとドキドキしてしまったけれど。 頼まれたことはやり遂げるしかないと気を引き締めた。 夕鈴が寝室に戻ってみると、彼はもう起き上がっていた。 「何をされてるんですか!?」 「まだまだ問題は山積みだというのに、休むわけにはいかない。」 さらに立ち上がろうとする彼の肩を押さえる。 「頭を打たれたんです。今日くらいは大人しくしていてください。」 「…何の権限があって私に意見する?」 止める夕鈴をじろりと睨む鋭い瞳は狼陛下のものだ。 妃にだけ甘いあの狼陛下ではなく、夕鈴さえも敵だという、人々を凍らせてしまう冷た い瞳だ。 泣くな、怯むな。 傷つく心を奥に静めて、ぐっとお腹に力を込める。 「妃の権限です! とにかく李順さんからも頼まれてるんですから今日はここにいてもら います!!」 夕鈴の啖呵に呆気にとられた後、彼は突然可笑しそうに笑った。 「―――恐れないな 君は。」 「貴方の演技の上手さはよく知っていますから。」 演技なのは夕鈴に気を許していないだけだ。 本当は小犬であることを夕鈴は知っている。だから恐れない。 「あははは」 今度は声を上げて笑われて驚く。 硬かった空気が少しだけ和らいでみえた。 「本当に面白い。君といると退屈しないな。」 敵だという誤解は解けたのか、警戒心を解いてくれたようだ。 「分かった。今日は仕事をしない。その代わり、君が相手をしてくれ。」 「はい。」 もちろんですと夕鈴が答えると、また少し笑みが優しくなったように感じた。 「…そういえば名は?」 「え…」 名前も知らない私のことを陛下が警戒していたのは当然なのだと今更ながらに思う。 そういえば私は名乗ってすらいなかった。 何も知らない陛下と私には繋ぐ思い出も関係も何もない。 …ならば、一から絆を繋ごう。 「夕鈴、と言います。」 「―――良い名だ。」 たとえそれがお世辞なのだとしても、頬に熱が集まるのは止められなかった。 →2へ 2011.3.26. UP --------------------------------------------------------------------- 実は、今ちょうど考えていた長編と一部ネタが被ってました。 どこが被っているかは… あっちが書き上がってから教えたいと思います。 そんな感じで、今回もやたらに長いので前後編です。(…)