「お后様、注文の品の追加分を確保できました。」 年若い官吏からの報告に夕鈴はゆったりと頷く。 「ありがとう。では柳方淵殿にも報告と、それからこれを彼に渡してください。」 「分かりました。」 後ろに控えていた女官から書状を受け取って、彼は深く礼をすると足早に去っていった。 「忙しそうじゃの。」 女官にも所用を言い渡し、ようやく1人になって溜め息を付いたところで老師に呼び止め られた。 ここは後宮の外―――しかも廊下のど真ん中だが、この老人は神出鬼没なのでもう夕鈴も 驚かない。 「当たり前じゃないですか。式典まであと10日しかないんですから。」 何を言っているのかと言いたげな夕鈴に、老師は少し心配げに眉を寄せる。 「全部任せてしまえば良かろうに。本来のお主の仕事など衣装合わせくらいじゃろうが。」 本来"后"は式典前でもこんな風に慌ただしくすることはない。 行商人を呼んで装飾品を購入したり、部屋に色とりどりの生地を持ち込ませて侍女達と新 調する衣装を選ぶくらいだ。 しかし彼女は王宮を動き回り、彼女の元に持ち込まれる問題を裁きまくっていた。 しかも、本来の"仕事"のはずの衣装や装飾品選びは好きに選んでくれと侍女達に丸投げ中 だ。 「―――任せようとするともめるから仕方ないんです。本当に進歩のない人達だわ。」 老師への返答と共に夕鈴は心底呆れた溜め息をついた。 10日後に行われる各国の要人を招いての宴。 国内でも重要な式典の一つなのだが、陛下は半月前に起きた西の水害の処理で手が離せな い。 そこで夕鈴が代わりに宴の準備を仕切ることになったのだ。 誰に任せるかでまた諍いが起こっていてはいつまでも進まないし、時間が勿体ない。 そう言ったのは陛下で、引き受けたのは夕鈴だ。 ただし、さすがに1人では不安だと思って柳方淵を補佐に付けてもらい、後は若い官吏を 数名借りた。 一応経過報告は李順にしているものの、実質夕鈴が采配から全て指示をしている。 「すっかり王の后じゃの。」 「何 当たり前のことを言ってるんですか?」 感心する老師に夕鈴は怪訝な顔をした。 夕鈴は狼陛下唯一の、そして最愛の正妃。 今なお陛下の寵愛は薄れず、その仲睦まじさは諸外国にまで響き渡るほどだ。 狼陛下の寵愛をたった一人の女性が得ているという事実がどれほどのものか。 けれどまるで自覚のない彼女に老師は苦笑いを隠せない。 「名だけではないということじゃ。あとは世継ぎだけかの。」 「…またそれですか。陛下も私もまだそんな余裕はありませんから。」 それはもう聞き飽きたと即刻否定する。 老師にはまだ臨時花嫁をしていた頃から言われていることだ。 正妃になった今ではもっと周りの声が煩くなったけれど、2人ともまだその気はない。 「お主の立場を安定させるためにも重要なことじゃろうが。」 老師が半分は心配してくれているのは分かっていた。―――もう半分はただのお節介だと いうのも。 出自の低さから今も何かと言ってくる貴族もいるのは事実。 もし夕鈴に子が産まれて、それが男の子であれば、国母として確固たる地位を持てる。 けれど夕鈴はそれを良いとは思わなかった。 「子どもを利用するなんてしたくありません。」 2人の子どもは愛されて、望まれて生まれてきて欲しい。 今はまだその時期ではないと夕鈴は思うし、陛下もそれは納得してくれていた。 「ほほう。逃げられなくなるからではないのじゃな?」 面白半分に老師が茶化す。 すでに后としての務めを立派に果たしているとはいえ、子どもがいない今ならまだ完全に 逃げ道がないわけではない。 でも、今の夕鈴にもうその気はなかった。 「共に歩む覚悟なら正妃になると決めたときにしました。」 「ならば良いんじゃが。」 ただ好きなだけでは傍にいられない。 彼の傍にいるためには、隣に並び立ち共に歩む覚悟が必要だった。 ―――でもそれを、私は選び取った。ただ一途に愛するあの人のために。 「…だいたいあの人が逃がしてくれると思いますか?」 彼の"演技"が演技ではなく本気だと夕鈴は長い間気がつかなかった。 だから逃がしてくれていたことを知らなかった。 「よく理解しておるの。」 「それについては身をもって教えられましたから…」 気持ちを隠して逃げた夕鈴を追いかけて捕まえて、暴いたのは陛下。 本気を見せた彼は夕鈴を逃がしてくれなかった。 「ほっほっほ。陛下が初めて、そして唯一自ら欲したものじゃからの。必死でおられたの だろう。」 今はもうその気持ちは疑えない。 それだけの想いをぶつけられて、それに応えたのは夕鈴自身なのだから。 「ところでお前さんらはもう何日会っとらんのかの?」 さりげなさを装いつつ、バレバレな態度に夕鈴は思いっきり呆れた。 お節介な老師にとってはこっちが本題か。 「忙しくてそれどころじゃないです。」 「ほー 寂しくないのか?」 鋭い指摘に一瞬沈黙が落ちる。 だけどその感情が表に出ることはなかった。 「……、それ以上茶化す暇があるなら手伝ってください。」 どさどさと持っていた書簡を手の上に落とす。 そういえば、こんなところで長々と無駄話をしている時間はないのだった。 「これを李順さんに届けてください。」 「年寄りは労らんかい!」 重い!と老師が叫ぶが夕鈴は聞く耳持たない。 「誰より1番元気な人が何を言ってるんですか。」 老師の年は知らないが、身軽に窓を飛び越えたりしている姿を見ている方からすれば気遣 いなどする気も起こらない。 そもそも夕鈴が持っている程度なのだから老師が持てないはずがないのだ。 「私はこれから人と会う予定があるんです。自分達で連絡し合えばいいのに、互いに意地 を張るから私が間に入らなきゃならないんですよ。」 式典の人員配置も夕鈴の采配だ。 派閥も階級も取っ払って、純粋に能力と適正で選んである。 もっと良い役をと思い、賄賂を贈ろうとした者には「私の采配に文句があるわけ!?」と 怒鳴りつけて黙らせた。 「…最も公正な目を持つ者か。これ以上の適任はおらんじゃろうな。」 どこまでも真っ直ぐな彼女は曲がったことが大嫌いだ。よってこういう時には私情も挟ま ない。 陛下の傍にいる者でその存在は貴重。 そして誰より真面目で努力家な部分を老師は気に入っていた。 手伝ってやろうという気になる。 「小娘! 陛下から伝言じゃ。無理はせぬようにと。」 「はーい! 陛下もと伝えてくださーい!」 老師が呼び止めた時には、夕鈴はもうかなり先まで進んでいた。 忙しいのは本当らしく、全くじっとしていない。 「本気で分かっとるのかの…」 老師の溜め息混じりの呟きは、手を振り走り去る夕鈴の耳には届かなかった。 寂しい… そんなこと思ってはいけない。 口に出してはいけない。 あの人に気づかれてはダメ。 ―――知れば、優しいあの人は、必ず会いに来てくれるから。 だから絶対知られたくないの。 私はあの人の役に立ちたい。足手まといにだけはなりたくないから。 「夕鈴は元気そうだったか?」 政務室に書簡を届けに来たた老師に黎翔が尋ねる。 その言葉に含まれる気遣いは本物で、老師は顔に刻まれた皺をより深めて微笑んだ。 「元気に走り回っておりましたよ。陛下のお心遣いに気づいておるのか分からないほど、 ですがの。」 聞いてはいたが気づいていたかは疑わしい。 言ったそばから走り去っていたくらいだ。 「……」 その話を聞いた黎翔は足を組みかえつつ少し考え込む。 彼女に関しては懸念していることが一つだけあった。 もちろん式典の準備は滞りなくやり遂げてみせるだろう。そちらの心配はしていない。 心配しているのは彼女自身のこと。 「私が会いに行ければ良いのだが…」 「そんな暇はありません。暇があったら夕鈴殿に頼んだりしませんよ。」 独り言だったのを聞き咎めて、即却下したのは当然李順だ。 彼女を正妃にしても、基本李順の態度は変わらない。 彼にとって重要なのは、黎翔でも夕鈴でもなく、どれだけ仕事の効率を良くするかだ。 「んー… いや、時期的にな…」 「は?」 「心配だな…」 李順の疑問には答えずに、黎翔は呟いてから窓の外に視線を投げた。 →2へ 2011.7.3. UP --------------------------------------------------------------------- 時間がなくて遅くなってしまいました(汗)←感謝祭もしてましたしね… ごめんなさいと謝りつつ、後半に続きます。