願い 3




(今夜も陛下はあの人のところへ行くのかしら…)

「っつ…」
 ズキリと胸の奥が鋭く痛む。
 毎日のように感じるこの痛みは、夕鈴を否応にも自分の感情と向き合わせた。
 どんなに抗っても逃げ切れない。


 どす黒い感情がぐるぐると内面で渦巻き、時に溢れ出しそうになる。
 彼の後ろ姿を見る度、遠ざかる足音を聞く度。

 ああ嫌だ。こんな醜い感情持ちたくない。

 今回のことは私の過失だ。
 そしてそのことで陛下に迷惑をかけている。
 だから、こんなことを考えてはいけないと思うのに。


 …苦しくて苦しくて、耐えられそうになくて。
 でも、泣くことだけはしたくなくて。


「―――――…」
 ふらりと立ち上がると、1人で部屋から庭へと続く扉を開く。
 とにかく気持ちを落ち着けないとと思った。









 庭に佇んで、星を眺める。
 細い月はとっくに沈んで、無数の星だけが天に輝いていた。

「帰り、たいな……」
 ぽつりと零すと空が瞬く。
 その輪郭がじわりとぼやけて、頬を何かが伝っていった。
 そんな資格もないのに馬鹿だと思う。でも一度 箍が外れてしまえばもう自分で止めるこ
 とはできなかった。




「―――夕鈴。」
 どれくらいそのままでいたのだろうか。突然背後から呼ばれてびくりと固まる。
 聞こえるはずのない声、だけれど自分が彼の声を聞き間違うはずもない。
 慌てて夜着の裾で涙を拭いて、夕鈴は後ろを振り返った。

「…陛下、何故こちらに?」
 極力平静を装って、声が震えないように注意しながら尋ねる。
 月明かりがないから夕鈴の顔ははっきりと見えないはずだ。
 …泣いていたことには気づかれたくなかった。


「侍女達が心配していた。」
 階を降りてきた陛下が頬に触れようとしたから、目を逸らしてそれから逃げる。
「あっ そういえば何も言わずに出てきてました。すみません、すぐに戻りますから。」
 早口で答えて脇をすり抜け、彼に背を向けて部屋の方に足を向けた。
「私は何ともないですから、早くあちらに行って差し上げて下さい。」

 顔を見ては言えない。
 見てしまったら、「行かないで」と言ってしまいそうで。

 傷ついているのは私じゃない。傷つくべきなのは、私じゃないのだ。
 私は本物の妃じゃないから。本当はこの想いすら間違っている。

 だから、、


「夕鈴。」
 彼が腕を掴んで引き留める。そのまま引き寄せられて強引に振り向かされた。

「夕鈴、僕に何か言いたいことはない?」
「…別に、何も」
 顔が逸らせなくて、仕方なく目だけを逸らす。

 見ないで、何も言わないで。
 …暴かないで、私の心を。

 けれど、彼は夕鈴の懇願を打ち崩すように、今度は狼陛下が再度問うた。
「何か言いたいことはないか? ―――君が望めば叶えられる。君は、それが許される立場
 だ。」
「私が…?」

 許される? 叶えてくれるの?
 私が望めば、貴方は―――…


「ダメです…っ」
 ハッと気が付いた夕鈴が首を振って否定する。
 渾身の力で彼の腕を振り切って、一歩分の距離を開けた。
「私はそれを望んではいけないんです! だから、陛下…お願いです。それ以上何も言わな
 いで……」
 伸ばされた手をも振り切って、顔を見られまいと袖で顔を隠す。

 涙は流れない。流せない。
 私にその資格はない。

 出口のない感情が再び暴れ出そうともがいている。
 だけど、それを出してしまえば終わりだ。


「何故言う前に諦める? 私は何も言っていない。」
 そんなの言わなくても分かっている。
 叶えられるわけがない。
「だって、私は臨時の花嫁です。…不相応な望みは言えません。」
 本物なら望んでも良いかもしれない。本物なら許される。
 でも、"私"にはそれを言う権利はない。

「それは私が決めることだ。」
 強い瞳がきっぱりと言い切った。

「だから諦めないで。逃げないで。」

 それは懇願するような祈るような響きで。
 狼でも小犬でもない彼が夕鈴を見つめていた。

「教えて、"君"の望みを。」

 彼が問うのは"妃"ではなく"夕鈴"の望み。

(言って、良いの…? それを。)

 怖い。言ったら全部変わってしまう。
 でももう止められなかった。



「貴方が、好き………」
 溢れた涙がぽろりと頬を流れ落ちる。

「ここに、いてください… あの人のところへは行かないで……っ」


 貴方には知られたくなかったの。
 こんなワガママ、叶えられるはずがないのだから。

 涙で彼の顔が見えないのは幸いだった。
 彼がどんな表情をしているかなんて知りたくない。
 ―――拒絶されるって分かってるのに。



 だから、気づけなかった。
 彼の手が自分に伸ばされたことに。


「夕鈴!」
 声はすぐ傍で聞こえた。
 風を感じなくなる。代わりに何かに身体が包まれた気がして。
「…え?」
 抱きしめられていると気づいたのは、その声が耳に届いてさらに数瞬後。

「やっと聞けた。」
 柔らかな声。それは安堵のような、どこか泣きそうな声にも聞こえる。
「…夕鈴、」
 瞼に何かが触れた。
 それから涙が流れる頬に、こめかみに、額に。
 壊れものに触れるようにそっと、でも何度も何度も。
 キスの嵐が降ってくる。
「っ、あの、、」
 夕鈴が戸惑う声を上げても止まない。
 涙もすっかり引っ込んで、触れるものの正体に気づいたら後は恥ずかしさが残るだけ。
「へ、陛下… 待って、や」
「待たない。待てないよ。」
 全ての言葉を飲み込んで、重なった唇はまだ少しだけ涙の味がした。








「あ、あの、陛下…?」
 キスの余韻がまだ残る中、彼の腕の中で夕鈴は真っ赤になっていた。
「どうして、こんな…あの…」
 だって分からない。どうしてこんなことになっているのか。
 キスの意味はもちろん知っている。けれど、どうしてしてくれたのかが分からなかった。
「ああ、ごめん。あまりに嬉しすぎて大事なことを飛ばしてた。」
 失敗失敗と苦笑いして、彼は一度ぎゅっとしてから夕鈴の肩を押す。
 少しだけ空いた距離で彼の顔がはっきり見えて、真っ直ぐに見つめる紅い瞳にどきりと心
 臓が大きく鳴った。

 何故だろう。
 いつも見ているはずの顔が、知らない男の人みたいに見える。
 優しい笑みは小犬のようで小犬じゃない。でも狼陛下でもない。


「―――僕も君が好きだよ。ずっと前から、君が好きだったんだ。」

 そうして告げられた言葉もまた、優しく甘い響きを持っていた。


「……。………え!?」
 言葉が耳に届いて、頭で反芻して、さらにぐるりと一周してからその意味を理解した。
 それから思わず出てしまったのは驚きの声。

 だって、それはあまりに有り得ない言葉だったから。


「やっぱり気づいてなかったんだ。」
 反応を見て彼は苦笑いする。
「え、だって…」

 好き? 陛下が私を?
 しかもずっと前から、ってどういうこと??

 頭の中で?マークがぐるぐると回っていた。
 確かに今自分は彼の腕の中にいて、演技や冗談にするにはその表情が裏切っている。
 けど、だけど…

 ぐるぐる悩んでいると額と額をこつんと合わせられた。
「君とこうしたいってずっと思ってたよ。―――好きだよ、夕鈴。」
 もう一度彼はその言葉を口にする。
 そしてその言葉は少しずつ心に落ちて広がっていった。


「まだ信じない?」
 困った顔の陛下が腕を解いて夕鈴を開放する。
 そうして選ぶのは夕鈴だとでもいうように、彼はただ手を伸ばした。


(…信じたい)

 ―――その手を取ったのは夕鈴の意志。



 もし明日夢が覚めても、この時だけは私達は通じ合ったのだと。
 この夜だけは忘れずにいようと思った。


 それ以上は要らないわ。それだけで私は大丈夫だから。








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2011.9.18. UP



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待てないよと言った陛下に、待たんかい!とつっこんだのは私です(笑)
しかし陛下は私の言葉なんざ聞いてくれませんでした。全くもう。
4はそんな陛下の視点でお送りします。
 


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