罪人を放り込んでいる牢は薄暗く冷たく、いつ来ても気分の良い場所ではない。 しかし今日はいつもと違うところが一つだけあった。 ―――それは、罪人達が恐ろしいほどに静かだったこと。 (無理もない。) 格子の奥で震える者達を横目に見ながら李順はそう思った。 牙を剥き出しにした狼が目の前にいる。 目を見ただけでも喰い殺されそうなものに誰も近づこうとは思わない。 …その狼はそれらに一瞥もくれず、前を見たままで気にも留めていないが。 この方の標的はただ一つ。他にその瞳に映るものはない。 最奥の牢の前で足を止め、開けろと目で促す。 震える手で看守が錠を外して後ろに下がると、陛下はさらに殺気を強めつつ中に入った。 広い牢の中央に男が一人転がっている。 この男が弓を射た男、狼の標的になった獲物だ。 (―――馬鹿な男ですね。さっさと全てを吐いていれば良かったものを。) 陛下の後ろから垣間見える姿に、呆れにも似た溜め息をつく。 屈強な体躯をした男は今だ沈黙を守り、口を閉ざしたままだった。 その行為の愚かさをこの男は今から体感するのだろう。 (…まあ、同情はしませんがね。) 李順の心の声は男には届かない。 「起きろ。」 陛下が足先で肩を押し上げ、乱暴に上向かせる。 小さな呻き声をあげて男の口が動いた。そうしてゆっくりと目がこちらに向けられる。 男の体が思うように動かないのは尋問のせいだろう。 「―――生きていたか。」 男を見下ろす横顔はどこか嬉しそうだ。 何を考えているのか…その笑みが恐ろしい。 「…骨は折れていますが、死ぬほどではありませんから。」 陛下が聞くかどうかは分からないが、一応補足はしておく。 捕まえ方が少々手荒かったために両足が折れてしまったのだ。 本気の浩大に手加減はなかった。 その後も「狼陛下の寵妃」を狙った男は誰からも手加減されていない。 それでも何も喋らないのは称賛に値する。…同時に愚かだとも言えるが。 「それは良かった。この男だけは自らの手で確実に殺したいと思っていた。」 「…ひ っ」 言葉にすると男の顔が恐怖に染まる。 紅い瞳に射抜かれて、ようやく男も自分が犯した過ちに気づいたようだった。 「お待ちください。まだ殺してはなりません。」 声を出したのはもちろんこの男を助けるためではない。 止める李順の方に陛下が顔を向ける。 「何故だ?」 狼は李順にも容赦なく、引きそうになって李順はゴクリと唾を飲み込んだ。 『邪魔をするものは切り捨てる。』 さっきそう言われたが、言わなければならないことは言う。李順はずっとそうしてきた。 そうして仕えてきて、李順は今もここにいる。 「まだ首謀者を突き止めていません。」 陛下の御世を盤石にするため、障害は徹底的に排除しなくてはならない。 やっと尻尾を出してくれたものを無駄にするわけにはいかないのだ。 しかも今回は夕鈴殿に大怪我をさせてしまっている。それくらいの結果は必要だ。 「だから何だ。この男は夕鈴を殺そうとした。その罪は命で贖う他ないだろう。」 しかし陛下は聞く耳を持とうとしない。 「陛下。」 再度諫めるのも聞かず、陛下は男の方へ視線を落とす。 「…ああ。すぐに殺しては楽過ぎるな。両腕両足を切り落として死ぬまで転がすか。刺客 なら丈夫にできているだろう、すぐには死ねんな。」 「陛下!」 「…何だ? 煩いなら舌も切れば良い。そうすれば自ら死ぬこともできん。」 お前も煩いと言わんばかりの視線に、陛下の本気を感じ取る。 言葉を間違えば即刻切り捨てられると本能が悟っていた。 しかしそれでも李順は続ける。 「…舌を切ってしまえば話せません。」 「どうでも良いさ。私から聞きたいことは何もない。」 あっさり答えた陛下が腰に佩いた剣を抜く。 薄暗い中で銀の刀身がギラリと光り、その先は転がされた男へと向いた。 「さて、どこからいくか。それとも自分で選ぶか?」 男は答えない。…答えることなどできない。 紅い瞳の狼を前にして、瞼を見開いてがたがたと震えるだけだ。 「―――選べぬのなら私が選ぼう。」 狼は気が短いのか、そもそも最初から選ばせる気があったのかどうか。 「―――――、ッッ!!!」 ほとんど待たずに振り下ろした剣先が肩を刺す。 男の声は声にならなかった。 「ぐっ ぁ…」 仰向けの男の顔が苦痛に歪む。陛下の表情は動かない。 彼の腕はすぐには切り落とされなかった。 「…うぁ、が…、っ…」 「何だ?」 逆の手を踏みつけ、狼は薄く笑う。 その後ろで李順はただ黙ってそれを見ていた。 赤黒い血が滲み出て、手の先が小刻みに震える。 さらに深く刺せば骨が軋む音がした。 「この程度で済むと思うな。夕鈴が受けた痛みに比べればまだ――――」 「陛下っ!!」 全ての音を打ち破るかのように、息を切らして年若い兵が駆け込んできた。 空気を読めと李順は背筋が寒くなったが、それは次の言葉で消える。 「お妃様がお目覚めになられました!」 「っ 夕鈴が!?」 弾かれたように顔を上げた陛下の顔は、すでに獰猛な狼ではなかった。 「はい、それで陛下をお呼びするようにと」 兵の言葉も最後まで聞かずに彼は牢から飛び出す。今まで甚振っていた獲物はもう眼中に ない。 李順が止める間もなく…声さえかける前に行ってしまった。 「―――良かったですね。伝令があと少し遅かったらその腕は身体から切り離されていま したよ。」 まあいいかと思って、李順は陛下の長剣が肩に刺さったままの刺客を見下ろす。 抜くことはしなかった。そのままの方が都合が良いからだ。 「ああなったあの方に脅しという感覚はありませんから、言ったことは確実に実行されま す。」 男の目が李順の方を向いた。意識は辛うじてあるらしい。 …"そういう"力加減だったのだろうが。 意識がなくては苦痛は与えられないのだから。 久々に見た本気の狼陛下。 自分もずいぶん平和ボケしていたようだ。 (…あの方をそうさせたのが"臨時花嫁"というところが多少気にかかりますが。) 切り捨てると言っていた最初の頃のあの言葉はどこに行ったのか。 しかし今はそれは考えないことにする。 せっかくの好機だ。逃すのは惜しい。 「…取引をしませんか? 今すぐ首謀者を吐くならば辺境への流罪で済ませます。陛下にも 貴方の居場所は教えません。」 地獄の中での唯一の救いであるかのように、李順は優しさを混ぜてにこりと笑う。 「それでも黙秘を選ぶなら―――…まあ、説明の必要はありませんね。」 男の表情が動いたのが分かった。 あの地獄を―――いや、それ以上の恐怖を味わうか、ここから逃げるか。 「さて、どうされますか?」 それが事実上の最後通牒になった。 →3へ 2011.11.10. UP --------------------------------------------------------------------- 他人視点の方が陛下の怒りが伝わるかなぁと… 李順さんはこういう交渉事上手そうだなぁとか思って最後を入れました。 ラストの3は夕鈴視点です。