傷痕 1
      ※ 「失えない」の続きです。




「残りますか…」
 老師の診断に、夕鈴は小さな呟きで返す。

 肌触りの良い布地を再び纏い、老師の方へと向き直った。
 傷痕を見て告げられた言葉は予想の範囲内ではあったのだけれど。

「女としては不名誉なことかもしれんが…」
 老師の苦い表情は夕鈴を気遣ってのもの。
 それにゆるりと首を振る。夕鈴の懸念はそこではないから。
「そこは別に良いんです。……ただ、知ったら陛下がまた自分を責めてしまわれそうで。」


 抱きしめた夜を思い出す。
 縋るように回された手は忘れられない。

 今回のことで深く傷ついたのは陛下の方。

 夕鈴の傷は痛まなくなれば気にしなくても良い。
 けれど彼の心の傷はそう簡単には癒えない。



「…知らせずにいることはできますか?」
 あの人の憂いは1つでも少ない方が良い。
 夕鈴が窺うように尋ねると、老師は少し渋い顔を返した。
 本意ではないということだろう。
「―――お主がそう望むのならな。」
 けれど結局は夕鈴の意図を酌んでくれた。

「お願いします。」
 礼の意味も込めて、夕鈴は深く頭を下げた。

















「あの、陛下…」
 もう当たり前になりつつある共に過ごす寝台の上で、正座した夕鈴は意を決して口を開い
 た。
 …共に過ごすと言っても並んで寝ているだけなのだけど。
「ん?」
 寝台に寝転んで、まだ少し濡れている夕鈴の髪で遊んでいた陛下はその手を止めて夕鈴を
 見上げる。
 先を促す彼は完全に寛いだ様子の小犬だ。

「そろそろ、部屋に帰ろうと思うんですが…」
「――――」
 切り出すと、彼から表情が抜け落ちた。
 それに胸が痛まなくもないが、いくらなんでも長居しすぎだと自分でも思うのだ。
「その… 侍女の方々に毎日来てもらうのも心苦しいですし、ここの女官さん達の仕事も増
 やしてますし…」
「誰かに何か言われた?」
 あ、何か機嫌悪くなってる。
 誰かに言われてなら、彼はその人を叱責するだろうか。
「いえっ そういうわけじゃないんですけど。」
 けれど、本当にそういうわけじゃなかったから、思いっきり首を振った。
 これは完全に夕鈴の意志だ。


「―――傷も痛まなくなったみたいだし、頃合いとしてはちょうど良いかな。」
 少しして、陛下は良いよと言ってくれた。


 その答えに安堵する心と寂しく思う心。

 相反する気持ちを押さえ込んで、夕鈴はありがとうございますとだけ告げた。



















*



















 彼女が願い出た翌日、久しぶりの一人寝の夜。
 隣にない温もりをつい探して手が彷徨う。

 いつもなら、自分より少しだけ高い体温を引き寄せて、心地よい眠りに誘われるというの
 に。
 それがないというだけでこんなにも違うものなのか。

 ほんの短い間にそれが当たり前になっていた。
 今の状態の方が正常だと分かっているのに。
 一度得た温もりを身体は正直に求める。

 どうやっても眠れず、小さく息を吐くと仕方なく寝台に置き上がった。


 ここで彼女を腕に抱いて、そこで初めて彼女が生きていると安堵できた。

 包まれるように抱きしめられた夜から、ようやく眠れるようになった。


 失いかけた事実は今も傷として黎翔の心を苛む。
 傷を負ったのは彼女なのに、彼女が元気になってもまだ自分は戻れない。


 彼女の望む通りに帰したけれど、帰した途端これか。
 自分の脆さに呆れる。


「…元気な姿を見れば安心するかな。」
 一人呟いて、音を立てず黎翔は寝台から降りた。









 時は夜半を過ぎた頃。
 彼女の部屋もしんと静まり返り、暗い室内には物音一つしない。

 奥に、一つの気配。
 それを感じて少しだけ張っていた気が緩んだ。


 迷いなく奥の寝室まで歩を進めて、音を立てないように帳を押し上げる。
 寝室もすでに蝋燭の明かりが消えていて、細い月明かりだけがぼんやりと室内を照らして
 いた。

 さらに進んで最奥の寝台の薄布を上げ、そっと中へ滑り込む。
 光が届かないそこでも、黎翔にはその姿がはっきり見えた。


「夕鈴…」
 囁くような声で呼んでも彼女が目覚める気配はない。
 全くいつも通り過ぎる安らかな寝顔に複雑な思いを抱きつつ、幸せそうにも見えるそれに
 ふと頬を緩めた。

 それでもと、手を伸ばして頬に触れ温かさを感じ、首に滑らせ脈があることを確認して安
 堵する。
 彼女は生きている。確かに。

 彼女の無事は確認できた。―――後は戻れば良い。
 けれど手がそこから離れない。

「もう、少しだけ…」
 ごめんと声に出さず呟く。
 今だけ、すぐ戻るから、そんな風に自分に言い聞かせて。

 寝台に腰かけて、逆の手で彼女の流れる髪を弄ぶ。
 柔らかな髪は指に絡まることなく指の間をすり抜けていく。

 もし彼女が目を覚ましてしまったら戻ろう。
 そんなことを考えながら、彼女の寝顔を見つめ続けた。



「……陛下?」
 小さな声にハッとする。
 薄く目を開けた彼女まだ半分夢見心地のようだ。
 それに安心して、そっと頭を撫でてあげた。
 今なら夢だと思ってくれるだろうか。

「まだ寝てて良いよ。」
 朝はまだ遠いから。
 寝ぼけた彼女は素直にこくんと頷く。
「陛下も、寝ないとダメですよ…」
 それでも黎翔への気遣いは忘れない。
 優しい君に小さく笑う。
「うん…君が眠ったら戻るよ。」
 その答えに安心したのか、彼女はにこりと微笑んで、再び夢の中に戻っていった。

 ―――起きるまでは彼女が起きたら、そうして今は彼女が眠ったら。

 彼女はもう夢の中。でも、離れられない。



 結局朝方までそこにいて、黎翔は夕鈴が起きる直前に寝室を出ていった。



















*




















 最初は夢だと思っていた。
 でも違うと気づいた。

 …毎日続けば当たり前だ。





「李順さん、お願いがあります。」
 陛下が傍にいない時に、突然上司にそう告げた。
 怪訝な顔をする彼に夕鈴は深く頭を下げる。
「1日だけ時間をください。」


 そして、ここ10日近くにも渡る経緯を詳しく説明した。

 聞いていくうちに李順さんの表情は険しく苦いものになる。
 言葉にしながら夕鈴も胸が苦しくて顔を歪めた。


「―――このままだと、陛下が倒れてしまいます。」


 夕鈴が傷を負って、深く傷ついたのは陛下の方。

 ならば、私にできることは何か。
 あの人のために私ができることはあまりにも少ない。
 その少ない手の中で、考えて考えて。


「1日だけで良いんです。お願いします。」


 私があの人のためにできることは少ないけれど。

 あの人が、私のせいで傷を負ったのなら。
 私がどうにかするしかないでしょう?




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2012.1.9. UP



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うお、思ったより長くなった!(汗)
そんな前置きを踏まえつつ、後編へ進みます。
 


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