7)住む世界が違う人




 何も変わらないまま、日々は慌ただしく過ぎていく。


「…あっという間だな。」
 くるりと周囲を見渡して、黎翔は誰に言うでもなく一人呟く。
 今は見回りも兼ねて校内を回っているところだった。

 放課後になっても人は減らず、どこに行っても文化祭一色。
 どこからか釘を打ちつける金槌の音が聞こえ、また他方からは風に乗って甘い香りが漂っ
 てくる。
 ふと足を止めてその香りを辿ると、調理室からのようだった。


 その証拠に、黎翔がいる渡り廊下から見える調理室の窓に男子がたむろしている。
 窓際にいるのは制服の上からエプロンをした少女で、彼女の手には白い皿が乗っていた。
 どうやら男子達の方は外での作業中に美味しそうな匂いに誘われたらしい。



「どれが美味しい?」
 少女の問いに彼らは一斉に各々の場所を指さす。
「俺、これ!」
「この真ん中のがいい。」
「これさー 粉っぽくね?」
 彼らは率直に…というより、好き勝手に感想を述べる。
 それらを一通り聞き終え、少し考えた様子を見せてから少女は中を振り返った。

「ゆーりーん! あんたのが一番好評みたいよー」
「えー ほんと?」
 彼女の声に応えて夕鈴が窓側に出てくる。
 夕鈴もまた、白いエプロンに頭には三角巾を被って手には皿を持っていた。

「味もいくつか考えてみたんだけど… プレーン、チョコ、抹茶、紅茶、蜂蜜――― どれ
 が良い?」
 彼女が差し出すと一斉に手が伸びてくる。

「ちょこ!」
「抹茶がいい。」
「蜂蜜が美味いと思う。」

「って、みんなバラバラじゃない!」
「単なる好みの問題よね、これ。」
 アテにならないと女性陣は呆れた顔になる。
 その間も次々と持って行かれるが、試作品だから良いかと夕鈴も放置していた。

「いっそ全部作る?」
 少女も夕鈴の皿から取って口に入れる。
 ついでに夕鈴の口にも放り込んだ。
「まあ… クッキーなら大量生産できるけど。」
「ケーキの種類を減らしてこっち増やそっか。」
「あ、ケーキも食べたい。」
「ゼータク!」


 彼らと一緒に夕鈴も明るく笑う。
 そこで覚えるのは、寂しさにも似た感情。



 ―――最近、あんな風に笑ってくれない。

 帰り道に文化祭のことを話していても、時々ふと笑顔が消えるときがある。
 声をかけるとハッとしたように顔を上げて、また準備の成果をいろいろ聞かせてくれるけ
 れど。


 彼女の憂いは何だろう。
 分からないから何もできない。

 "彼"にはそれを話したのかな?
 …それを、僕には教えてくれないのかな。

 僕は……私は、彼には敵わないのか?


「――――……」
 知らず知らずのうちに胃の辺りを強く握りしめていた。














 生徒会室に戻ると、そこには李順だけが残っていた。
 現生徒会は全員出払っているらしい。

「準備は順調のようですね。」
「ああ、そのようだな。」
 書類をチェックしていたらしい李順が顔を上げ、満足そうに言うのに頷く。
 李順の向かいの席に座り、黎翔もファイルを一冊手に取るとパラパラとめくってみた。

 資料は見やすく綺麗にまとめられ、不備などどこにも見当たらない。
 今期生徒会は本来ならオブザーバーなど要らないような優秀な人材達だ。
 黎翔達がここにいるのは単なる慣習のためと、黎翔自身が夕鈴と一緒に帰りたかったから
 というそれだけだ。



「…黎翔様。」
「何だ?」
 呼ばれて資料から顔を上げると李順と目が合う。
 手元の書類は脇に避けられているから、李順が言いたいのは文化祭のことではないのだろ
 う。
「いつまで待たせるのですか?」
 一瞬 どのことを言われたのか分からなかった。
「―――ああ、食事会の件か。」
 すっかり忘れていたと言うと、「やっぱり…」とがっくり肩を落とされた。
「返事はまだかと煩いんですが。先方は乗り気だそうです。」

 黎翔が跡継ぎの有力候補と知られてから、また周囲が煩くなった。
 その食事会とやらも、どうせどこかの娘が付いてくるのだろう。

 ―――煩わしい。

「文化祭が終わるまで暇はないと答えておけ。」
「でしたら、その後ならよろしいのですね?」
「…ああ。」
 適当に相づちを打ったその時、カタンと小さな音が聞こえた気がして黎翔は入り口に目を
 向ける。
 少しだけ開いた扉の前には誰も言なかったが、遠ざかる軽い足音が聞こえた。

「………」
 それが誰かは分からない。
 確証もない。

 けれど、黎翔は追いかけなければならない衝動に駆られて立ち上がる。
 李順から不思議そうに声をかけられたが、それには答える余裕はなかった。




「どっちに…」
 廊下に出てすぐ左右を見渡す。
 人気のない廊下にかすかに動く影が見えて、進行方向をそちらに向ける。
 角を曲がる女子生徒の色素の薄い後ろ髪がちらりと見えた。

「―――!」

 やはり間違いない。あれは夕鈴だ。
 ここで立ち止まる理由なんかなくて、急いで後を追いかけた。









「お前、俺が甘いもの食わないの知ってて言うのかよ。」
「率直な意見が聞きたいのよ。」
 いつかどこかで似たような場面があったなと思う。
 そしてまた、黎翔の足は止まってしまった。

 聞こえるのは声だけだ。二人の姿は見えない。

「そんなんお前の恋人に食ってもらえ。」
 几鍔はいつもの調子でつっけんどんに言い放つ。

 "恋人"―――ああそうか、自分のことだ。
 そんなことをぼんやり考えていると、僅かな沈黙の後で「いや」という小さな声が返って
 きた。

「…あの人には、あげない。今は、会いたくないの。」

 どくりと 心臓が波打つ。
 いや、頭を殴られたような衝撃を受けたのかもしれない。

『会いたくない』
 その言葉に、そこから一歩も動けなくなった。


「―――分かったから。ほら、屋上行くぞ。」
 二人の足音は黎翔とは反対の方向へと遠ざかっていった。












「喧嘩でもしたか?」
 ピンクのリボンでラッピングされた袋を手で遊ばせながら、几鍔は後ろの夕鈴を振り返る。
 みんな文化祭の準備中だから、屋上は今日も誰もいない。

「違うわよ。……再認識しただけ。」
 夕暮れに染まる空を見上げて、届かない雲に手を伸ばす。
 遠い遠い空の上、彼は夕鈴にとってそんな人だと改めて気づかされた。

「私とあの人は、やっぱり違うんだなって思って。」

 だって、会長じゃなくなったあの人はもう婚約者候補達を追い払う理由もない。
 もうすぐ… あの人にふさわしい、良家の女性が彼の隣に立つのだろう。

 恋人役が終わってしまえば、夕鈴はもう近づくことさえできなくなる。


 あの人は、住む世界が違う人だ。




「……おい、甘すぎるだろ これ。」
 よりによって蜂蜜味のクッキーかよ、と。
 好みなんか全く考慮していないそれに、甘いものを食べているとは思えないほど苦い顔で
 几鍔はぼやく。
「当たり前じゃない。」
 それにさらっと返せば「オイ」と突っ込まれた。


 だって、先輩は甘いものが好きだから。
 あの人のために選んだものだもの。几鍔に合わないのは当たり前だわ。


「で、感想は?」
「……ブラックコーヒー添えろ。」
 慣れない甘さが余程キツかったらしく、思いきり顔を顰めている。
 そんな几鍔に夕鈴は「了解」と言って笑った。












*












「夕鈴! 几鍔さんが呼んでるわよ〜」
 明玉に呼ばれて、「何?」とクラスの女子の輪から抜け出す。
 教室の前には確かに几鍔の姿。携帯片手に呆れた顔だ。

「何か用?」
「…お前、どうせ携帯見てないんだろ。」
 予想通りだと言わんばかりの几鍔の態度に、え、と慌ててポケットを探る。
 しかし、いつものようにそこに目的の物は入っていない。
「あ、ごめん。鞄の中だわ。」
「だろうな。来て正解だったぜ。」
 ああ、明らかにこちらに非があるからムカつくとも言い返せない。
 ぐっと唇を噛みしめていると、「ほら」と几鍔からメール画面を見せられた。
 差出人はおばさん―――つまり、几鍔の母親からだ。

「メシ食いにこいだと。」
 確かにそんな文面だ。
 それをちゃんと夕鈴に伝えるようにとの文も添えてある。
「でも… そんな悪いわ。」
 今日はいつもより遅くなるが帰ってから作るつもりだったのだ。
 父親にも青慎にもそれは伝えていたし、二人とも待てるからとの返事だった。

「青慎も親父さんももう来て先に食ってるらしいぞ。」
「へっ?」
 見れば、もう一つ後のメールにはそう書いてある。
 ああ、ひょっとしたら青慎からそういうメールが入っているのかもしれない。
「日頃の礼だとさ。遠慮すんな。」
「…分かったわ。」
 せっかくの好意だ。今日だけはそれに甘えよう。
 承諾の返事をすると、几鍔はすぐにメールでそう返してくれた。


『下校時間になりました。校内に残っている生徒は―――』
 お礼を言おうとしたところで耳慣れた音楽が流れだし、次いで下校を促す放送が流される。
 もうそんな時間かと、二人同時にスピーカーを見上げていると、途端に背後が慌ただしく
 なった。

「夕鈴ー これ片付けて良い?」
「あ! 今行く!」
 クラスメイトに呼びかけられて、夕鈴も慌てて振り返る。
 と、几鍔から後ろ頭を軽く小突かれた。
「じゃあまた後でな。気をつけ…る心配はねーか。どうせアイツと帰るんだろ。」
「っ」
 あまり言われ慣れない類の軽口に夕鈴はぽんっと赤くなる、
 相変わらずだなと呆れつつ、几鍔はひらひら手を振りながら背を向けた。
「いちゃつきすぎて遅くなるなよ。」
「誰がッ」
 言い返そうとしたけれど、中から「急いで」と急かされて、やむを得ず夕鈴は教室に引っ
 込んだ。










「…睨むな。誤解されても困るんだが。」
 進路を阻むように前に立つ男に几鍔ははぁと溜め息をつく。
 どこの教室もバタバタと騒がしいが、この男の周りだけは音が消えたようだ。

「…ちょうど良い。お前には聞きたいことがあったんだ。」
 狼陛下だ何だと言われているが、几鍔にはあまり関係がない。
 睨まれたところで怖いとも思わない。
 几鍔にとってはいけ好かない相手というだけの男だ。


『期限付きの恋はどうすれば良い?』

 普段は弱いところなんて見せようとしない幼馴染が吐露した不安。
 思い出して、前の男に苛立ちを覚える。


「―――お前はアイツをどうしたいんだ?」
「…君にそれを聞く権利はあるのか?」

 "権利"ね。それを聞いて鼻で笑った。

「幼馴染だからな。…前に覚悟しろと言ったのは忘れてないだろうな。」
 ぴくりと僅かに反応を示した相手を今度はこちらから睨む。
「今後お前がどんな選択をするのかは知らない。だがそれ次第で傷つくのはお前じゃなく
 夕鈴だ。俺はそれを見過ごすつもりはない。」
 言っているうちに 何だか無性に腹が立ってきた。

 "終わりの日"に、アイツは絶対泣くんだろう。

 それが分かるから。…分かるからこそ。


「前言撤回だ。……お前が捨てるなら、俺がもらう。」
「―――ッ」

 ああ、そういう顔もできるんだな。
 頭の片隅でそんなことを考えた。


「先輩、お待たせしま――― あれ、几鍔??」
 片づけを終えたらしい夕鈴がパタパタと走ってくる。

「じゃあな。忠告はしたぜ。」
 彼女がここに追いつく前に、男の脇を通り過ぎた。
 視界の端に血が滲むほど握りしめられた拳が見えたが、それには気づかないふりをした。




8へ→


2013.6.7. UP



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ふぅ。やっとここまできました。
あとは文化祭当日を残すのみです。
広げた風呂敷を折りたたまなくては…

え、アニキの宣言ですか? どうなんでしょうね。ふふふ。
皆様の予想通りだと思いますよ。


最終話と一緒に入りきれなかった小ネタをUPできたらなぁと思います。
デート前の夕鈴と明玉のやりとりとか、二面性がバレた後の二人のやりとりとか。
中心部だけ書いてるのでいろいろと抜けてるんですよね(^_^;)
あとは 黎翔さんが卒業した後の話も書きたいな〜(ギャグで)



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